1コリント1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
昨日、地域の教会の教職者の集まりがあり、ある先生が、最近の若い世代の人たちは、だんだんと人間関係の持ち方が希薄になりつつあるという事を嘆いておられました。
たとえば、最近の若い世代の人たちは、先輩を敬おうとしないとか、あるいは、何でもメールや電話で済ませようとし、直接あって、一緒に語り合ったり、祈りあったりすることを面倒がったりと、きわめて自己中心だと言うのです。
確かに、その通りだと思うのですが、逆に、「先輩を敬え」というような昔のやり方を今の若い世代の入たちに押し付けるのも、かえって自己中心的ではないかと思ってしまいます。
先輩たちが受け継いできたものが、良いものであるならば、放っておいても、後輩たちはそれを受け継ぎ、次の世代の人たちに受け継いで行くはずです。
でも、それが受け継がれていかないのは、何か、そこに問題があるからなのでしょう。
もちろん、私も先輩を敬わないというわけではありません。歩んでこられた歴史の重みは、私たちのような若造が逆立ちしたって勝ち目のないほどに、その差が縮まる事はないからです。しかし、一方で、私より若い人であっても、優れた才能や努力を重ねている人を見ると、素直に尊敬します。
そして、純粋にキリストの福音を宣べ伝えようとしている人を、私は尊敬します。なぜなら、きっとその人は、同じ方を仰ぎ見ているからです。
使徒4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
イエス様は、私たちの救いのために、ご自分の命まで投げ出して下さった愛のお方。この方をおいて、他に、私たちを救いうる名前は、この世にはありません。
と同時に、この方だけを最高のお方として見上げて行きたいものです。
キリストにはかえられません。世のなにものも。