マルコ14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
イエス様のゲッセマネにおける祈りのお姿は、決して、力強く、勇気に溢れたものというようなものではなく、ひどく恐れ、悲しみ、できることなら避けて通りたいほどに、ご自身がこれから受けなければならない十字架の死に対する不安を表すものと言えます。
これは、確かにイエス様が私たちと全く同じような人間になられた証でもあり、言い換えるならば、私たちの恐れや悲しみ、不安といった事柄を全てお引き受け下さっている証でもあるということなのでしょう。
もし、イエス様の十字架の死が、何の恐れもないままに、どうせ復活するのだから大丈夫というような安易なものだったとしたら、とうてい私たちの恐れや悲しみ、不安などを取り除くことはできなかったことでしょう。
ピリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
イエス様の味わわれた恐れが本物であり、一人の人として、最後まで私たちと同じ苦しみを味わって下さったイエス様を覚えつつ、感謝したいものです。