敵を愛し、迫害する者のために祈る | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2006年1月15日
聖書箇所:マタイ5章43~48節

本日の成長のテキストでは、イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と御語りになられたお勧めについて取り上げられています。
成長の解説によると、イエス様のこの教えは「あなたがたは~聞いている」という表現を用いることによって、「聖書に~書かれている」というのとは違って、当時のユダヤ教の指導者たちの自分たちの都合を優先させた解釈を行っていた事を戒めるために語られたものであるということが記されています。
確かに、当時の指導者たちの理屈で言えば、自分と考えが合わない人は皆「敵」であり、考え方が合わない人を幾ら愛そうとしても、それこそ罪となってしまう、という風に考えていたことでしょう。
このような考え方は、当時の指導者たちに限らず、いつの時代にも普通に見られる事かもしれません。
仮に、自分と考え方が会わない人を「敵」と表現したとして、必ずしも、愛せないほど極悪な人間であるとは限らないはずです。
だって、夫婦ですら考えが合わない時もあるのですから。(苦笑)
しかし、イエス様は、そんな考え方の異なる、いわゆる「敵」と呼びうる存在を、むしろ、その人を愛し、その人のために祈ってあげるよう勧めています。それこそが、神様の本来望んでいらっしゃる事柄であり、人間関係において最も大切な事柄であると言えるのでしょう。

先日、教会で行われていたセミナーで、相手を受容することの大切さを学ぶ機会がありました。
男性はつい、相手が何を言おうとしているのかを考え、それに対する解決を探り、「ああすれば」とか「こうすれば」といった助言をしてしまいがち。一方、女性は、解決を求めているわけではなく、ただ聞いて欲しいのだと。
一緒に学んでいた一人の男性の方と、夫婦関係などについて話し合いながら、たぶん、相手の気持ちだけを考えてあげたら良いのだろうというところに落ち着きました。
今は怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも、寂しいのか、嬉しいのか、今の相手の気持ちがどうであるのか、それを汲み取ってあげることが大切なのでしょうね。