イザヤ65:1 わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。
65:2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた。
65:3 この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
65:4 墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし 豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
65:5 「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ 絶えることなく火を燃え上がらせる。
先日、ある知り合いの方から、「人という字は、カタカナのトに形が似ていて、そのトが一番高いところに上り詰めると、下という字になり、逆に、一番低いところに立つと上という字になる」というお話しを聞きました。
なるほど、その通りであり、「人の上に立ちたいと思う者は、かえって仕える者になりなさい」という御言葉や「末席に座りなさい。そうすれば、『もっと上席へおあがり下さい』と言われるであろう」との御言葉をもって説明して下さいました。
ルカ22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
ルカ14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
「我こそ優れた者であり、聖なる者である。」そのように思いあがっている人は、弱い立場にある人のことや、何が本当に大切なことであるかということなどが見えなくなってしまいます。
イエス様の時代のユダヤ人たちもそうでした。
自分は誰よりも聖なる者であると互いに競い合い、救い主として遣わされたイエス様を受け入れることができず、ついに、イエス様を十字架にかけて殺してしまいました。
なんとも皮肉なことですが、しかし、そのような人間の罪の姿があったからこそ、神の救いの御業もまた明らかにされたとも言えるのでしょう。
イザヤ65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。
65:19 わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
65:20 そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。
65:21 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。
65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。
65:23 彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。
65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。
65:25 狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
この箇所は、黙示録の21章以下の天の御国の光景を思い起こさせる表現であると言えるでしょう。このように祝福を約束された神の国は、この地上において、思いあがることもなく、かえって虐げられていたような者たちの上に到来します。
それが神様の約束なのです。
そのような祝福の約束を受けるために、己の罪を悔い改め、神の御前にへりくだる者でありたいものですね。