エゼキエル2章8節~3章11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル3:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
3:2 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、
3:3 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
3:4 主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
3:5 まことに、あなたは、不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。
3:6 あなたは聞き取ることができない不可解な言語や難しい言葉を語る多くの民に遣わされるのではない。もしわたしがあなたをそれらの民に遣わすのなら、彼らはあなたに聞き従うであろう。
3:7 しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。
3:8 今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。
3:9 あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」
3:10 更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。
3:11 そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」

昨日、数年前に私たちの教会の幼稚園で働いて下さった宣教師の先生が、休暇と取材を兼ねて、私たちの教会を尋ねて下さいました。
せっかくなので、その日予定されていた家庭集会に出席していただき、メッセージを取り次いで下さいました。
しばらく日本から離れていたこともあって、やや、日本語をお忘れになられていたようでしたが、それでも、しっかりと、イエス様のこと、イエス様の復活による命の希望を語って下さり、集会に参加された方々も、皆一様に、ウンウンうなづきながら、恵まれた時を持つことができました。

一夜明けて、今朝の日課の御言葉を読みながら、ふと、昨日のメッセージと全く同じ内容のお話しを私が語っていたとしたら、果たして、同じように恵まれていただろうか、などと考えてみました。
とてもシンプルなメッセージ、わかりやすいメッセージ、しかし、それを日本人である私が日本語で語ったところで、宣教師の先生が一生懸命語られた日本語のメッセージには、とうていかなわないような気がしました。
もちろん、私が異国の国で、その国の言葉でメッセージを語れば、熱心に耳を傾けてくれるかもしれませんけど、ここは日本。日常の生活において日本語を用いている方々に、日本語を用いて神の国の言葉を語っているのですから、本来ならば、宣教師の先生よりも、さらにわかりやすいメッセージを語ることができるはずなのです。
しかし、現実には、なかなかそうはいかないものです。同じ日本語を語る日本人なのに、なかなか理解してもらえず、苦労している方も多いのではないでしょうか。
そんな私たちに、主なる神様は、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」と仰せられます。
聞き入れてもらえるかどうかは、全く別の問題であり、まずは語ること。それが宣教の働きの基本なのでしょう。そして、信じてもらえるかどうかは、語る側の問題よりも、聞く側の問題であり、あとは、その人が信じることができるように祈って待つことが大切なのでしょう。
最初から、あきらめて語ることを止めてしまえば、聞く人も、信じるきっかけすら得られなくなってしまうのですから。

ローマ10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。