創世記38:11 ユダは嫁のタマルに言った。「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。
ユダには3人の息子がいました。
長男エルと結婚したタマルは、エルの死後、次男のオナンと再婚し、次男のオナンが死んでからは、三男のシェラが成人するまで待つよう、ユダに言い渡されます。
しかし、ユダは、シェラが成人しても、タマルと結婚させようとはせず、遊女にふんしたタマルがユダと関係を持ち、双子の子を生むという、どろどろした関係になって行きます。
もとはと言えば、ユダがシェラとタマルを再婚させようとしなかったことに原因があるのですが、おそらく、長男に続き、次男までもが命を取り上げられることになったことを恐れて、この嫁のタマルに三男を与えたら、三男の命まで取り上げられてしまうかもしれないと恐れたからなのでしょう。
ここには、あくまで、自分の子孫を残そうとするユダの執着心があったでしょうし、突き詰めて行くと、歴史に名を残したいという強い願望があったからなのではないでしょうか。しかし、逆に、ユダは「汚名」を残す結果となってしまうのです。
誰もがこの世に生きた証を残したいと思うのは、ごく普通のことなのでしょう。生きた証、存在した証。
しかし、そのような事に自分の子供たちを巻き込み、親のエゴを押し付けていくのは、本当に可愛そうです。
子供たちに立派な人になってもらいたくて教育を充実させたり、塾に通わせたりする事は悪くはないとは思いますが、どこかに、親のエゴや、自分ができなかった夢を子供におしつけようとしたりする気持ちがあるならば、そこには、悲劇と汚名を残す結果になりかねないのでは?と思うのです。
子供は親の所有物ではありません。
一人一人に意思があり、やりたいこともあるはずです。
もちろん、できるだけのことはしてあげたいと思います。
しかし、最終的には、彼らの人生は彼ら自身で選んで行って欲しいのです。
神様に与えられた命、そして、自由。
願わくは、これらの命と自由をもって、主なる神様をほめたたえる者になっていってくれれば、それが一番だなあと思います。
子供たちよ。神様に与えられた人生を、主イエス様とともに、喜びと感謝にあふれて歩んで行ってください。