創世記11章1~32節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

私は語学が苦手です。というか、学生の頃から、語学を学ぶ意味や目的がわかりませんでした。
でも今は違います。もちろん、今でも得意ではありませんが、話せるようになりたいなあと思うようになりました。
語学を勉強するには、やはり、はっきりとした目的意識を持つ必要があります。
私の場合、同じ信仰を持つ兄弟姉妹との交わりのため、言葉や文化の異なるクリスチャンたちと、イエス様の恵みについて分かち合えたら、どんなに素晴らしいだろうと思うようになってから、勉強したいなあと思うようになりました。
でも、年をとってから始めるのは、なかなか身につかないものですね。

言葉というのは、人が互いの意思疎通を深めていくためには、たいへん重要な手段です。その言葉が通じなくなったら、本当に大変です。
でも、言葉が通じないから、謙遜にもさせられるのかもしれません。バベルの出来事がそうであったように。
でも、神様がそんな不確かな「言葉」を用いて救いの約束を人間に知らせようとなさったということは、そういう意味で、人間に対する謙遜さを求めるためのものであったのかもしれません。
ならば、語学が苦手であるということも、謙遜になるために有益なこととして受け留め、日本語しか理解できなくても、神様の愛を知ることができるよう、なるべく多くの時間を日本語の聖書を読むことに費やしていくのが良いのではと思います。

1コリント1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

大切なことは、神様の救いを知り、その事実を感謝して生きること。そして、その事実を伝えることのできる言葉を語ることではないでしょうか。
どんな国の言語であれ、神の救いの素晴らしさをたたえる言葉なら、一人でも多くの人に理解してもらいたいと思います。ということは、結局は、そのために語学を勉強することも必要かな?