ある若い学生の方が「牧師っていいですよね。だって、住む家も車も、みんな教会が用意してくれるんでしょ?僕も牧師になろうかなあ」と言ったとか・・・。
牧師になりたいと思うのは良い事としても、その動機には、かなり問題がありますね。
牧師になることは、もっと素晴らしい喜びがあるということをぜひ知って頂いて、その上で、献身ということを考えていただきたいものです。
ところで、パウロの活躍した時代にも、教会の働きの意味を理解できていない人たちも幾分見受けられたようです。
パウロは、アジア・ヨーロッパ各地を巡り、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教会の礎を築き上げていきました。しかし、中には、そのようなパウロの働きに対して、「彼は本当に使徒なのか」とか、あるいは、「そもそも、なぜ伝道者たちの生活の支援を教会がしなければならないのか」といった疑念を抱く者たちもいたようです。
しかし、パウロは、そのような者たちに対し、自分たちの務めは、神から与えられたものであるということを主張し、この世の古い価値観に縛られたままで物事を判断している限り、顔に覆いがかけられているかのように、真実が見えないまま、不自由な考えに囚われてしまうのだということを告げているのです。
2コリント3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
3:7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
3:8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
3:13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
3:15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
パウロは、モーセの時代の古い契約、すなわち、罪人を死に至らしめる律法の言葉と比較して、キリストの十字架の贖いによる新しい救いの契約、すなわち、福音の言葉は、罪人を命に至らしめるものとして、律法に勝ってはるかに優れた栄光をもたらすものであるということを告げようとしています。
そして、その新しい契約を受け入れ、福音の言葉に仕える者は、かつてのモーセのように、顔に覆いをかけるような必要はなく、すべての覆いを取り除け、まるで、主と顔と顔を見合わせてお会いするかのように、何の制限もなく、主なる神様と交わることができるということが約束されているのです。
古い契約(律法)に縛られたままの者は、どれだけ頑張ったかとか、どれだけ成果をあげたかとか、まるでこの世の価値観と何ら変わらない基準にひって物事を判断しようとします。それは、パウロの言葉を借りれば「不自由」なのです。
しかし、私たちは、そのような価値観から解放され、まったく「自由」にされているのです。
ですから、主のために働いている人たちの活躍をみて、ねたんだり、うらやんだり、あるいは、批判したり、そんな不自由な考え方をすることはありません。むしろ、主の働きのために骨折っている方々を見て、喜び、感謝し、ますます豊かに用いられるよう祈って支えていきたいものですね。