イザヤ38章には、ヒゼキヤが病気で死にかけていた時、主に祈って病がいやされ、しばらく生きながらえることができた時のことが記されています。
イザヤは涙ながらに主に祈り、主はその祈りを聞き届けて下さいました。
9節以下には、彼が癒されてから後に記した祈りの言葉が記されています。
その中で、彼は、人生の半ばにおいて、よみの門に入り、生ける者の地から捨て去られてしまったという表現を用いて、滅びゆく者の現実を記しています。
イザヤ38:10 私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門にはいる。私は、私の残りの年を失ってしまった。
38:11 私は言った。私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。死人の国の住人とともに、再び人を見ることがない。
38:12 私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。
38:13 私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。
もちろん、彼は、まだ死を迎えているわけではありませんから、文字通り、よみに入り、この世からは捨て去られた存在ではなかったはずです。しかし、身体的に生きてはいても、霊的には死んだような状態であったということを悟っていたのでしょう。
実は、私たちが生きていても、実際にはこのように滅んでいる状態であるということを悟ることは、私たちが救われるためには大切なことなのです。
自分が滅び行く者であるということ、いえ、既に、滅んだ状態であるということを悟る者でなければ、神様に救って頂く事を求めはしないし、実は、神様に救いを求める行為そのものが「救われている」ということであると言えるのです。
イザヤ38:17 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
38:18 よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
38:19 生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。
38:20 主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。
救いとは、実に、生ける真の神様との交わりを持つことに他なりません。命の神様との交わりを持たない者は、その状態が「滅び」であり、命の神様との交わりを持っていることこそが「生きている」ことなのです。
生ける真の神様との交わり、それは、この愚かな罪人の私のために主イエス様が十字架で死んで下さったことを信じることであり、それによって、安心して私は主なる神様の御前に立ちうることができるのです。こうして、命の神、主イエス・キリストの神様との交わりが可能となったのです。
ヒゼキヤを救い、私たちをも救って下さる主なる神は、今日も生きていて、私たちを、神様との交わりの中に置いて下さいます。そして、その交わりによって「生きる者」としていただけるのです。どうか、この「命の神」「生ける真の神」との交わりを頂いて、命ある者として歩むことができますように。
1ヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。