イザヤ7章には、ユダの王アハズの時代に、アラムとイスラエルの軍がエルサレムへと侵攻しようとしていたときのことが記されています。
さすがに、連合軍相手では、ユダの軍隊では太刀打ちできないと考え、アハズも恐れを抱いていたことでしょう。
そんな不安に悩まされていたアハズに対し、主なる神様は、預言者イザヤを通し、神を信頼し、神の御業を求めるように語られます。
イザヤ7:10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
7:11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
神様の助けがあることを信用しようとしないアハズに対し「インマヌエル」すなわち「主は我らと共におられる」という約束を伴ったしるしとして、一人の男の子が与えられるであろうということが語られるのです。
もちろん、この預言は、究極的には、イエス・キリストにおいて成就する事柄ですが、この箇所を読むたびに思わされるのが、主なる神様が「しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」と仰せられたことです。何気ない表現ですが、よみの深みから、上の高いところに到るまで、どこにでも主は共にいて下さるということを約束しておられる言葉であり、「主が我らと共におられる」という約束の真実さ、どんな時にも、どんな場所にも共にいて下さる主の御臨在を思うのです。
辛いことが重なると、ついついこう思います。「主よ、どうしてわたしを見放されるのですか。どうして共にいてくださらないのですか。」と。しかし、主は「よみの深みにさえ伴って下さるお方であり、私たちの身代わりに、十字架の死刑をも味わって下さることによって、まさに、地獄の苦しみを引き受けて下さったのです。
ここ数日、私自身もいろいろと悩みを抱えていました。
「どうしてこんなことになってしまうのだろう・・・」と。
そんなときは、ついつい弱気になってしまいます。
しかし、主なる神様はこう仰せられるのです。
「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
どん底のような状況の中にも、必ず、主の憐れみの御業は現されます。それに気づくかどうかが問題かもしれませんが、主は必ず共にいてくださいます。
そんな素晴らしい主のお約束を伴った、インマヌエルなるお方、イエス・キリスト様の恵みに感謝して、どんなときも、主を信頼し、主のなさる御業を求めていきたいものですね。