マタイ24章36~44節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

イエス様は、世の終わりが到来する時、それがいつであるかということは、誰にも知らされていないから、常に用心して、イエス様をお迎えすることができるよう、信仰の目を覚ましていなさいと仰せられます。
しかし、常に目を覚まして待ち続けることは、とても大変なことのように思えます。
バーンアウト症候群のように、長らく緊張状態が続くことによって、やがて疲れ果ててしまうこともないとは言えないからです。
しかし、見方を変えれば、いつも神様の見守りの中にあることを覚えて、平安のうちに、リラックスした状態でい続けることができるのだとしたら、これは、何とも幸いなことではないでしょうか。

36節において「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。」と仰せられていることから、イエス様ご自身も、その時をご存知ではないということが伺えます。しかし、それは、イエス様が無知なお方であるということではなく、むしろ、だからこそ、私たちを常に見守っていて下さるという約束を知らしめるためのものなのではないでしょうか。
「家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょう」
イエス様もその時をご存知でないからこそ、イエス様は、私たちがどろぼうの手に落ちることのないように、いつも見張っていて下さるのです。

イエス様のために、常に信仰の目を覚まして何かをしなければ・・・と思うと、疲れてしまいますが、イエス様は、昨日も今日も、そして、これからも、いつでもこの私のことを守り、導いていて下さるのだということを覚えて過ごすならば、それこそが、信仰の目を覚ましている状態であると思うのです。
「私が~しなければ」ではなく「神が~していて下さる」という目を覚まし続けていたいものです。

ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。