この箇所には、ある父親が二人の息子に対して、ぶどう園に行って働いてくれるように頼んだところ、一人は「はい。」と答えながらも、ぶどう園へ行こうとせず、もう一人は「いやです。」と答えながら、後で悔い改めてぶどう園へ出かけて行ったというたとえが語られています。
面白いのは、口語訳聖書や新改訳聖書など、比較的古い聖書の本文では、「はい。」と答え、出かけて行かなかった方が兄、「いやです。」と答えながらも出かけていった方が弟となっており、新共同訳聖書では、まったく反対となっていて、出かけて行った方が兄、出かけなかった方が弟として語られています。
このような違いは、聖書のもとになる資料に幾つかのコピーがあるために、どのコピーが一番オリジナルに近いかどうかという判断によるもので、決して、どちらが正しくて、どちらが間違っているかという問題ではありません。
おそらく、口語訳聖書や新改訳聖書の元になっている資料は、直前の箇所のマタイ20章16節で、イエス様が「あとの者が先になり、先の者が後になる。」と仰せられたことに関連して、あとの者=弟、先の者=兄と捉え、イエス様に議論をもちかけていた祭司長や長老たちが先の者のごとく、神の国においては、あとの者となるであろうという風に解釈されているのでしょう。
いずれにしても、イエス様がここで仰せられていることの趣旨は、口先ばかりで、真の信仰のない祭司長や長老たちより、真実な悔い改めをしている収税人や遊女たちの方が先に神の国に入ることができるだろうというものであり、真の神への悔い改めこそが最も大切なことなのだということを示していると言えるでしょう。
悔い改めるということは、このたとえによると、父親の願いを聞いて、それに従って行動することです。
何をするかが問題ではなく、どう応えるかが大切であり、神様の素晴らしい愛に応え、全ての罪赦された者として、喜びに生きる者でありたいものです。
ルカ15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」