マタイ21章18~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」

今年の元旦礼拝で、ルカ13章6~9節に記されている、ぶどう園をふさいでいた実のならないいちじくの木であったとしても、手入れをすることで、今年1年、切り倒すのを待ってくれるよう番人が主人にとりなしたという箇所から、私たちの働きのためにイエス様がとりなしていて下さるということをお話しさせていただきました。
その時、教会のある方が、このマタイ21章18~22節の箇所を示して、イエス様は、こういう風にもお語りになられているということを取り上げて下さいました。
確かに、同じいちじくの木のお話しでもあり、一体、イエス様は、実のならないいちじくの木に対して、実がなるまで忍耐し続けて下さるのか、それとも、簡単に枯らせてしまわれるお方なのか、わかりにくいようにも思えます。
でも、答えは「両方ありうる」のです。

いずれの場合においても、イエス様は、いちじくの木を簡単に枯らせることもできるお方であるということは確かなことです。しかし、逆に言えば、イエス様のお許しなければ、一時たりとも、いちじくの木が生きていられないということでもあります。

マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

今、この私が生きているという事実も、イエス様のお許しがなければありえないこと。生かされていることの恵みを感謝しつつ、いちじくの木には、いちじくの木の目的があるように、私に委ねられている目的を果たすために、与えられた命を用いていきたいですね。

マタイ21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

主よ、今日1日、私に、あなたにある命と聖なる生活とをお与え下さい。主の御名によって、アーメン。