マタイ20章29~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

昨日の記事で、「完全になりたいこと」と「命を得たいこと」との違いについて触れていますが、両者の根本的な違いは、「私が」どうするか、「神に」どうして頂くのかというところにあるように思います。
自分の力で完全な者になりたいというのなら、それ相応の事が要求されます。しかし、神様の御業によって命を与えて頂こうとする者には、ただ、神に信頼する信仰心だけが求めらているのです。

イエス様に助けを求めた二人の盲人も、神様が憐れんで下さることを求め、ただただ、神様の御力が現れることを願ったのです。

「私に何をしてほしいのか」

私たちは、ついつい、「何を」というところに目を向けてしまいがちですが、「私に」というところに注目することが大切ではないでしょうか。
この御業を、一体、誰がなさるのか、そして、その方が、全能の神であり、私たちの真の救い主なるお方であるということを覚え、その方が願われることにお任せして、私の願いよりも、神様の願われること(私たちへの憐れみ)が現される事を願いたいものです。