律法学者、パリサイ人たちのある者から「しるしを見せて頂きたい」と尋ねられたイエス様は「悪い姦淫の時代は、しるしを求めているが、預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられていない」と仰せられました。
ヨナのしるしとは、大魚に飲み込まれたヨナが、3日後に生き返り、ニネベの人々に対して伝道したことであり、イエス様ご自身も、ヨナのように、3日の後に、死からよみがえるということを御語りになられています。
ある意味、今の時代も「しるしを求める悪い姦淫の時代」かもしれません。しかし、そのような時代の人々は、しるしを求めているにも関わらず、いざ、しるしが現されても、それをもって、イエス様が真の神であり、救い主であるということを受け入れようとしないのです。
つまり、最初から、イエス様を信じるかどうかは、しるしとは関係ないのです。
イエス様は、そのような人たちのことを指して、汚れた霊が出て行って、しばらくして帰ってみると、部屋が綺麗に片付けてあったので、自分よりも悪い7つの霊を連れて帰り、そこに住み着くようなものだと言っています。
つまり、悪霊が出て行くことによって、一旦はしるしを目の当たりにするものの、それが神様の御業によるものであるということを頑なに受け入れようとしないため、そこに神様の霊が住まわれるということがないため、神様の御業によって綺麗にされたところに、別の悪霊がやってくるようになるというもので、どんなに驚くような奇跡を行ったとしても、受け入れようとする心のない者には、かえって、奇跡が災いを招く結果になってしまうというようなことを言い表していると思います。
もし、私たちの身の回りに、どんな驚くような出来事があったとしても、そのことと、直接、私の救いと関係しているというわけではありません。
なぜなら、大切なのは、ヨナのしるし、すなわち、主イエス様が私のために十字架で死なれたにも関わらず、3日目によみがえって下さったという事実こそが、最も重要な「しるし」であり、これ以上のものはないからなのです。
ですから、私たちは、必要以上に、神様のなさる「しるし」としての奇跡をことさら強調するつもりはありません。
ただただ、私の救いのためになされた、主イエス・キリストの十字架と復活のことだけが、驚くべき事柄として褒め称えられますように。
1コリント1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。