マタイ9章27~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
9:30 二人は目が見えるようになった。

イエス様と二人の盲人との会話は、どこかちぐはぐな感じがします。
「私たちを憐れんで下さい」と懇願する盲人たちに対し、イエス様は「わたしに(それが)できると信じるのか」と問われます。そして彼らが「はい、主よ。(信じます)」と答えると、イエス様は、あなた方の信じた通りになるようにと言って、彼らの目を開かれるのです。

この話の流れを逆に遡ってみると、イエス様が彼らの目を開かれたのは、それを彼らが願っていたからであり、イエス様が「あなた方が信じた通りになるように」と仰せられた「信じた」内容が、イエス様は目を開いて下さるということだったということになります。
すると、イエス様は、それをご存知でおられたのでしょうか、あるいは、知っていながら、あえて、口にすることはなさらなかったのでしょうか、「わたしに(それが)できると信じるのか」という言い方で、彼らの求めに応じようとしているのです。
ならば、彼らは、最初からイエス様に対して、「私たちを憐れんで下さい」とは言わないで、「目を開いて下さい」と言うべきではなかったのかと思うのです。

イエス様に憐れんで頂くということは、単に、目が見えるようになることだけではなく、もっと、全人的なイエス様の愛や恵みを頂くことであろうと思います。彼らも最初は、それを願っていたのかもしれません。しかし、いざ、イエス様が「あなたがたの願いを何でも聞いてあげよう」と言われると、とっさに、「じゃあ、これをお願いします」という風に、私たちの側で、イエス様が与えて下さるはずの無限の恵みを、勝手に制限してしまっているのではないでしょうか。
この二人の盲人も、全人的な癒しを頂けるところを、とっさに、「目が見えること」だけに制限してしまったかもしれないのです。
そのため、彼らは、人々に言い触れてはならないというイエス様の教えを破って、かれらの住んでいた地方全体に言い広めてしまうのです。「目を癒してくれる方がいるぞ!」みたいに。

イエス様は、ただ単なる癒しを行うだけの医者ではありません。私たち人間の全存在を贖い、救って下さる救い主です。その中に、癒しの業も含まれているかもしれませんが、それだけが、全てではないのです。
もし、本当にイエス様の憐れみを受けたなら、仮に体のどこかに具合の悪い部分があったとしても、人は、イエス様の恵みの中で、真に平安の中に生きることができるのでは?と思います。

でも、できれば、体も健康でありたいですよね。
皆様が心も体も魂も、健やかに生きることが出来ますようにお祈りします。