エドムへの侵攻に成功し、勢力を拡大しつつあった南ユダの王アマツヤは、ついに、同胞の民、北イスラエルの王、ヨアシュに使いを送り、戦いを交えようとします。
列王記下14:7 アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を打ち、セラを攻め落とし、その名をヨクテエルと名付けた。こうしてそれは今日に至っている。
14:8 次いでアマツヤは、イスラエルの王、イエフの孫でヨアハズの子であるヨアシュに使者を遣わし、「来るがよい、戦いを交えよう」と言わせた。
この箇所は、新共同訳聖書では「来るがよい、戦いを交えよう」という訳文になっていますが、原文では「互いに顔を見合わせる」という意味の言葉が用いられていて、どちらかというと、最初から戦いをしかけようと思っていたというよりも、戦って滅ぼされないうちに、ユダに降伏するように圧力をかけようとしたものと思われます。
ちなみに、この箇所は、口語訳聖書では「さあ、われわれは互に顔を合わせよう」となっており、比較的、原文に忠実な翻訳となっていますが、やや、臨場感が損なわれている感がありますが、新改訳聖書では「さあ、勝敗を決めようではないか。」となっており、北イスラエルに対し、降伏するか、それとも、戦って決着をつけるか、選択を迫るような圧迫感を感じ取る事ができ、一番ふさわしい翻訳のように思えます。ただ、原文に忠実であるかどうかという点では、一番、意訳に近いかもしれませんが・・・。
いずれにせよ、新しく南ユダの王となったアマツヤが、血気盛んに、隣国北イスラエルに圧力をかけ、統一王国による支配を確立させようと企んでいたことは明らかです。
これに対し、北イスラエルの王ヨアシュは、
「レバノンのあざみがレバノンの杉に、『あなたの娘をわたしの息子の嫁にくれ』と申し込んだが、レバノンの野の獣が通りかかって、あざみを踏み倒してしまった。あなたはエドムを打ち破って思い上がっている。その栄誉に満足して家にとどまっているがよい。なぜ挑発して災いを招き、あなただけでなく、ユダも一緒に倒れるようなことをするのか。」
と、思いあがったアマツヤを軽くあしらい、思いあがった心を厳しく批判しています。
レバノンのあざみのような存在に過ぎない南ユダの王が、なにゆえ、レバノンの杉のような強大な北イスラエルの王に対して、そのようなおごった態度で、降伏を求めるのか・・・「一体誰に対して物を言っているのか、お前にはわかっているのか」といった気持ちで、このような表現で語っているのでしょう。
私は、この箇所を読みながら、主なる神様がヨブに対して語りかけた言葉を思い出しました。
ヨブ38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
38:2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。
38:3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
38:4 わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。
38:5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
38:6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
この世界をお造りになり、歴史をも支配しておられる神様の御前で、なんと、小さな存在であるか。そんなことを思いながら、思いあがった心を恥ずかしく思います。
しかし、同時に、そんな小さな者のためにも、神の御子イエス様の尊い命の犠牲によって救っていただいた事を感謝します。
今日1日も、神様の恵みの御前に、悔い改めと感謝の心で過ごせますように。