列王記下24章18節~25章21節、詩篇120篇、1コリント15章20~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下 24:18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。
24:19 彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。
24:20 エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した。
25:1 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。
25:2 都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。
25:3 その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、
25:4 都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。
25:5 カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。
25:6 王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。
25:7 彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
25:9 主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。
25:10 また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。
25:11 民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。
25:12 この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。
25:13 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、
25:14 壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。
25:15 また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。
25:16 ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。
25:17 一本の柱の高さは十八アンマで、その上に青銅の柱頭があり、その柱頭の高さが三アンマ、柱頭の周りには格子模様の浮き彫りとざくろがあって、このすべてが青銅であった。もう一本の柱も格子模様の浮き彫りまで同様に出来ていた。
25:18 親衛隊の長は、祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人を捕らえた。
25:19 また彼は、戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人を都から連れ去った。
25:20 親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえて、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行った。
25:21 バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。

詩篇 120:1  都に上る歌。 苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。
120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください 偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
120:3 主はお前に何を与え お前に何を加えられるであろうか 欺いて語る舌よ
120:4 勇士の放つ鋭い矢よ えにしだの炭火を付けた矢よ。
120:5 わたしは不幸なことだ メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは
120:6 平和を憎む者と共に わたしの魂が久しくそこに住むとは。
120:7 平和をこそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。

1コリント 15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
15:29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。
15:32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
15:33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。
15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。



イエス様は確かにこの世界に人として現れ、十字架で死に、そしてよみがえられた。
罪人を救うため、罪人の身代わりとなって償い、死に勝利するために、である。
だから、この方をまことの救い主として信じる者には、イエス様と同じ師に対する勝利、永遠の命の約束が与えられる、というのである。
なんとも不思議で、ありがたいことである。
私たちには、死に対して何ら克服する力も資格もないにも関わらず、ただただ主なる神様が私たちを憐れんで下さったことによってもたらされる恵みである。
私たちは、何も特別なことや、立派な働きが期待されているわけではなく、ただこの恵みによって救われることを信じて生きることを神ご自身も願っておられる。
先日は教会の年会が行われ、今年は教会としてどんな活動や働きをしていくのが良いか、みなで話し合った。
昨日はそれを受けて初めての役員会も行われ、具体的に、どういったことを成していくのか検討もなされた。
ある方が「聖日は礼拝にあずかるために教会にきているのに、受付の当番だからといって玄関ホールに待機して、礼拝に参加できないのはおかしい」といったことを言われていたが、まったくその通りだと思う。
できるだけ丁寧に、できるだけ多くの人に配慮して様々なことに対応していくことは好ましいことかもしれないが、それによって本来なすべきことを見失ってしまうのなら、それは残念な事である。
最善や高尚なことを追い求めるのは悪いことではないが、神がわたしたちに願っておられることが何なのか、本当に大切なことを見失う事のないように心がけていきたいものである。