エゼキエル30章20~26節、詩篇76篇、ヨハネ16章25~33節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 30:20 第十一年の一月七日に、主の言葉がわたしに臨んだ。
30:21 「人の子よ、わたしはエジプトの王ファラオの腕を折った。見よ、彼の腕は手当てを受けて巻かれることなく、力を補う添え木を当てて巻かれることもないので、剣を取ることができない。
30:22 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはエジプトの王ファラオに立ち向かい、その強い腕と折られた腕を共に打ち砕き、その手から剣を落とさせる。
30:23 わたしはエジプトの人々を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやる。
30:24 わたしはバビロンの王の腕を強め、その手に剣を与える。わたしはファラオの腕を折る。彼はバビロンの王の前で、刺された者のように呻き声を発する。
30:25 わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
30:26 わたしがエジプトの人々を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

詩篇 76:1  指揮者によって。伴奏付き。賛歌。アサフの詩。歌。
76:2 神はユダに御自らを示され イスラエルに御名の大いなることを示される。
76:3 神の幕屋はサレムにあり 神の宮はシオンにある。
76:4 そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。
76:5 あなたが、餌食の山々から 光を放って力強く立たれるとき
76:6 勇敢な者も狂気のうちに眠り 戦士も手の力を振るいえなくなる。
76:7 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると 戦車も馬も深い眠りに陥る。
76:8 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。
76:9 あなたは天から裁きを告知し 地は畏れて鎮まる。
76:10 神は裁きを行うために立ち上がり 地の貧しい人をすべて救われる。
76:11 怒り猛る者もあなたを認める あなたが激しい怒りの名残を帯とされるとき。
76:12 あなたたちの神、主に誓いを立て、それを果たせ。取り囲むすべての民は 恐るべき方に貢ぎ物をもたらすがよい。
76:13 地の王たちの畏れる方は 支配者の霊をも断たれるであろう。

ヨハネ 16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


イエス様の弟子たちは、イエス様と寝食を共にすることで、少しずつイエス様の人となりを知り、ついにイエス様が真の神から遣わされたメシアなるお方であることを悟ることになるのである。
しかし、それでもまだイエス様のなさる御業の全てを把握していたわけではないようで、まさかイエス様が捕らえられて殺されるとまでは考えていなかったのだろう。
おそらく弟子たちには、自分たちを救われるメシアなるお方が、自分たちの身代わりとなって十字架で死なれるなどとは、とうてい思いつきもしなかったのだろう。

1コリント 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

神様が私たちを救おうとされた方法は、神の御子イエス様の命を犠牲にして私たちの全ての罪を贖うという方法である。
人の目には愚かな方法に見えるだろう。
それゆえ、なかなかイエス様を信じようと思う人は少ない。
けれど、イエス様がこのような仕方で救いの御業を成し遂げて下さったからこそ、私たちはあらゆる困難なことを前にしても、救いの約束が変わることのない平安でいられるのである。
イエス様が弟子たちに前もってご自分が成し遂げる救いの御業について語られたのも、どんな困難なことに巻き込まれようと、弟子たちが希望を捨てず、平安でいられるようにとの願いからであった。
だから我々も、日々聖書の御言葉の約束に耳を傾け、どんな困難なことが訪れようと平安でいられるようにと願うものである。