エゼキエル29章1~12節、詩篇76篇、黙示録11章15~19節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 29:1 第十年の十月十二日に主の言葉がわたしに臨んだ。
29:2 「人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し、
29:3 語って言いなさい。主なる神はこう言われる。エジプトの王、ファラオよ わたしはお前に立ち向かう。ナイル川の真ん中に横たわる巨大なわによ お前は言う。『ナイル川はわたしのもの わたしが自分のために造ったものだ』と。
29:4 わたしはお前の顎に鉤をかけ うろこにナイル川の魚をつけさせ ナイル川の真ん中から引き上げる お前のうろこについた川のすべての魚と共に。
29:5 わたしはお前を荒れ野に捨てる ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで 引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥に お前を食物として与える。
29:6 エジプトのすべての住民は わたしが主であることを知るようになる。お前は、イスラエルの家にとって 葦の杖にすぎない。
29:7 彼らがお前の手をつかむと お前は折れ、彼らの肩は砕けた。彼らが寄りかかると、お前は裂け 彼らの腰はすべてふらついた。
29:8 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはお前に剣を臨ませ、お前の中から人も獣も絶ち滅ぼす。
29:9 エジプトの地は荒野に変わり、廃虚となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。お前が、『ナイル川はわたしのもの、わたしが造ったものだ』と言ったからだ。
29:10 それゆえ、わたしはお前とお前のナイル川に立ち向かい、エジプトの地を廃虚とし、ミグドルからセベネを経て、クシュの境に至るまで荒野にする。
29:11 もはや人の足はそこを通らず、動物の足すら通ることなく、こうして四十年の間住む人はない。
29:12 わたしはエジプト人の地を、荒れ果てた国々の中で、最も荒れ果てた地とする。その町々は荒れ廃れた町々の中で、四十年の間最も荒れ果てたものとなる。わたしはエジプト人を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやる。

詩篇 76:1  指揮者によって。伴奏付き。賛歌。アサフの詩。歌。
76:2 神はユダに御自らを示され イスラエルに御名の大いなることを示される。
76:3 神の幕屋はサレムにあり 神の宮はシオンにある。
76:4 そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。
76:5 あなたが、餌食の山々から 光を放って力強く立たれるとき
76:6 勇敢な者も狂気のうちに眠り 戦士も手の力を振るいえなくなる。
76:7 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると 戦車も馬も深い眠りに陥る。
76:8 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。
76:9 あなたは天から裁きを告知し 地は畏れて鎮まる。
76:10 神は裁きを行うために立ち上がり 地の貧しい人をすべて救われる。
76:11 怒り猛る者もあなたを認める あなたが激しい怒りの名残を帯とされるとき。
76:12 あなたたちの神、主に誓いを立て、それを果たせ。取り囲むすべての民は 恐るべき方に貢ぎ物をもたらすがよい。
76:13 地の王たちの畏れる方は 支配者の霊をも断たれるであろう。

黙示録 11:15 さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
11:16 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、
11:17 こう言った。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。
11:18 異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」
11:19 そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。



人が生きていくためには衣食住を満たしていく必要があり、おおよそ、大きな河川のある地域に人は集まり、やがてそこに町ができ、巨大な年へと発展していった。
しかし人が富を重ね、社会の仕組みが成立していくにつれて、貧富の格差が生じたり、国家による軍事的な争いも生じるようになる。
こうしたことが人間の社会で常に行われてきた。
しかし、こういったことは、富や権力を持つ者たちの身勝手な振舞いだけが問題なのではない。
貧しい人も、苦難を強いられている人も、みな同じようなことをしている。
権力を持つものも、持たない者も、みな同じ罪を持った人間であるからである。
だから、全ての人間が、神を神とも思わず、傲慢になってしまうのである。
自分の思い、自分の都合だけが全てで、時に人は他者の存在をもモノのようにしか見ようとしない。
しかし、神は違う。
人ときちんと人として見ていて下さる。
その証しがイエス様の十字架の贖いの御業であろう。
一人一人の存在が大切だから、イエス様は御自分の命の代価を支払ってまで救おうとして下さった。
というより、イエス様がご自分の命の代価を支払って下さったからこそ、私たち一人一人は尊い存在と言えるだろう。
自分の考えだけが正しいなどと驕った生き方に走らず、このような愛のお方をまことの神として受け止め、信頼し、生きていきたいものである。