申命記24章17~22節、詩篇146篇、マルコ11章12~14,20~24節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 24:17 寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。
24:18 あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
24:19 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。
24:20 オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:21 ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:22 あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。

詩篇  146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

マルコ 11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。



申命記の箇所に記されていることは、非常に興味深い。
寄留者や寡婦など弱い立場にある人たちが生活を続けることができるよう、彼らの権利を保証するよう勧められており、たとえば畑で刈り取りを行う時に、もし一束置き忘れることがあっても、それを取に戻るようなことはせず、むしろ、それをそのまま置いておくように命じられているのである。
あるいは、オリーブの実やぶどうを収穫する時なども、くまなく捜し出して、全ての実を一つ残らず収穫してしまうようなことをせず、寄留者や寡婦らが刈り取ることができるよう、むしろ残しておくように命じられているのである。
弱者への配慮のために、余裕を持たせよ、ということであろう。
余裕と言う言葉は、とても良い言葉である。
いかんせん、現代においては何事においても余裕がない。
あらゆる無駄を省き、余計なものを何一つ残さない、厳密な生産調整がなされたり、そうした環境下において、多くの人がギリギリのところで、全く余裕のない生活を強いられてしまっていたりする。
一つのミスも赦されず、常にギスギスした状況の中で、全く失敗の許されない世界の中にいて、人が幸せでいられるのだろうか。
私も小さなミスや間違いを度々起こすことがあるが、だいたい、すぐに誰かが「ここ間違ってますよ」と教えて下さる。
間違いを指摘して下さるのは好ましいことであるけれども、指摘される側は、地味に傷つくし、それが積み重なっていくと、常にビクビクしながら、恐れと不安の中に生きていくことになる。
以前働いていた教会では「毎週みなさんに間違い探しを提供していると思って楽しんでください」と言って、ミスも笑って扱える雰囲気にしようと試みたことがある。
なかなか難しいけれど、そこには赦しがあり、愛と配慮の心が養われていく。
心の余裕とは、そういうところに成長していくもの。
全ての誤りを指摘し、ギスギスした世界にするのか、多少のミスがあっても、それを受容し、愛と配慮に満ちた世界にするのか、私たちの心がけ次第でどうにでも変わるだろう。
なにより、イエス様は、私たちの全ての過ちを赦して下さったお方である。
そのことを覚えて、イエス様に赦してもらったように、私たちも互いに赦し合える者となれますようにと願う。