民数記9章9~14節、詩篇119篇1~8節、ルカ10章25~37節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

民数記 9:9 主はモーセに仰せになった。
9:10 イスラエルの人々に言いなさい。あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。
9:11 第二の月の十四日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい。
9:12 翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。
9:13 汚れているのでもなく、旅に出ているのでもなくて過越祭を祝わない者があれば、その者は自分の民から断たれる。なぜなら、彼は定めの時に主に献げ物をささげなかったからである。その罪を自分で負わねばならない。
9:14 あなたたちのもとに寄留する者が、主のために過越祭を祝おうとするならば、過越祭の掟と法に従って祝わねばならない。この掟は寄留者に対しても、その土地に生まれた者に対しても、あなたたちに等しく適用される。

詩篇 119:1 いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
119:2 いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
119:3 彼らは決して不正を行わず 主の道を歩みます。
119:4 あなたは仰せになりました あなたの命令を固く守るように、と。
119:5 わたしの道が確かになることを願います あなたの掟を守るために。
119:6 そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても 恥じ入ることがないでしょう。
119:7 あなたの正しい裁きを学び まっすぐな心であなたに感謝します。
119:8 あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。

ルカ 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


イエス様を試そうと下律法学者は、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るか尋ねた。
試そうとして尋ねているため、おそらく、イエス様がどう答えようと、それに従う気持ちなど無かったのかもしれないし、ましてやイエス様のことを真の救い主であるとは考えてもいなかったことだろう。
律法学者の問いは、あくまで「何をすべきか」というものであるが、イエス様は彼に対し「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われ、律法学者が「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えると、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答えておられる。
イエス様の答えは、一見「何をすべきか」という問いに対し「こうすべき」と答えているようにも見えなくもないが、どちらかと言うと、心の有り様を説いていると言える。
何をするかではなく、心がどこに向いているか、といった事の方が重要である、ということなのだろう。
それに関連し、この問答に続くたとえは、いわゆる「良きサマリヤ人のたとえ」として知られているお話しであるが、この話しで注目すべきところは、「私の隣人とは誰か」と問う律法学者に対し、イエス様が「誰がこの追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と問うておられることである。
つまり「あなたは誰を助けるべきか」ではなく「あなたは誰に助けられているか」ということを考えよ、ということであろう。
私を愛し、私を救って下さるお方は、唯一真のかみであられる主イエス様だけである。
このお方を「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして愛し」その上で「隣人を自分のように愛す」べきであるということであろう。
ちなみに、心を神に向けるのと同様、隣人にも心を向けていく必要があるが、「隣人とは誰か」ということを考える時、「あなたの隣人とは誰か」とのイエス様の問いかけを思い起こしたい。
私を救って下さった隣人とは誰か。
神が救おうとされた隣人とは誰か。
自ずと答えは見えてくるのではないだろうか。