オバデヤ17~21節、詩篇26篇、ルカ16章19~31節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

オバデヤ 1:17 しかし、シオンの山には逃れた者がいて そこは聖なる所となる。ヤコブの家は、自分たちの土地を 奪った者の土地を奪う。
1:18 ヤコブの家は火となり ヨセフの家は炎となり エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と まことに、主は語られた。
1:19 彼らは、ネゲブとエサウの山、シェフェラとペリシテ人の地を所有し、またエフライムの野とサマリアの野、ベニヤミンとギレアドを所有する。
1:20 捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。
1:21 救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。

詩篇 26:1  ダビデの詩。 主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
26:2 主よ、わたしを調べ、試み はらわたと心を火をもって試してください。
26:3 あなたの慈しみはわたしの目の前にあり あなたのまことに従って歩き続けています。
26:4 偽る者と共に座らず 欺く者の仲間に入らず
26:5 悪事を謀る者の集いを憎み 主に逆らう者と共に座ることをしません。
26:6 主よ、わたしは手を洗って潔白を示し あなたの祭壇を廻り
26:7 感謝の歌声を響かせ 驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
26:8 主よ、あなたのいます家 あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。
26:9 わたしの魂を罪ある者の魂と共に わたしの命を流血を犯す者の命と共に 取り上げないでください。
26:10 彼らの手は汚れた行いに馴れ その右の手には奪った物が満ちています。
26:11 わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。
26:12 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。

ルカ 16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」



ルカ16章の箇所で、イエス様が天国の様子について語られていることからは、天国に入ることが出来るのは、お金や能力によるのではなく、ただただ神の憐れみと恵みに信頼する者だけであることが伺えるだろう。
貧乏で、乞食をして暮らすほか仕方がないようなラザロは、もはや神に助けを祈り求めることしかできない状態であった。
しかし、救われるのはそういう者である。
一方の金持ちは、有り余る財産を持ちながらも、これを自分の楽しみのことだけに用い、すぐそばにいて生きることに困窮しているラザロなど見向きもしないで遊び暮らしていたのである。
神の御心をおろそかにするような者を、神が救われることなどない、ということなのであろう。
しかし、この話しのなかで興味深いことは、もし誰かがよみがえって神の国を宣べ伝えても、人はその話を信用しないだろうと語られていることである。
実際、イエス様はよみがえられ、人々に神の国のことについて語られているが、それを信じる者は少ないし、多くの人はばかにして、まともに耳を傾けようとしないのである。
信じない人は、誰がよみがえっても信じようとしない。
しかし、信じる人は、誰かがよみがえらなくても、聖書に語られているみ言葉を聞き、そこに現わされている神の恵みと憐れみに心を留めることができるのである。
その際、多くの富や自分の能力に頼った生き方をしていると、神の恵み憐れみを必要と思わなくなるため注意が必要である。
お金や能力があるに越したことはないが、それらが私を救ってくれるわけではない。

先日、ある聖書の箇所から偶像礼拝に関することを学んでいたが、人が信奉して崇める偶像は、ひとたび関係がこじれると、逆に命を奪い取ろうとして反撃をしてくることがある。
そんなものが神であるはずがない。
神は、常に私たちの身方であり、たとえ反逆したとしても、そんな者に命まで与えて救おうとして下さるお方である。
それが真の神の本当のお姿であることを忘れないでいたい。