列王記上13章1~10節、詩篇119篇169~176節、ローマ3章9~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記上 13:1 主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブアムは祭壇の傍らに立って、香をたいていた。
13:2 その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」
13:3 その日、この人は更に一つのしるしを与えて言った。「これが主のお告げになったしるしである。『見よ、祭壇は裂け、その上の脂肪の灰は散る。』」
13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって呼びかける神の人の言葉を聞くと、祭壇から手を伸ばして、「その男を捕らえよ」と命じたが、その人に向かって伸ばした彼の手は萎えて戻すことができなかった。
13:5 神の人が主の言葉に従って与えたしるしが実現して、祭壇は裂け、その祭壇から脂肪の灰が散った。
13:6 王が神の人に、「どうか、あなたの神、主をなだめ、手が元に戻るようにわたしのために祈ってください」と言ったので、神の人が主をなだめると、王の手は元に戻って、前のようになった。
13:7 王は神の人に、「一緒に王宮に来て、一休みしてください。お礼を差し上げたい」と言ったが、
13:8 神の人は王に答えた。「たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。
13:9 主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。」
13:10 その人はベテルに来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行った。

詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

ローマ 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。




ローマ書に書かれている事柄は、私たち人間には、救いを達成することのできるような良いところが何一つないといったことが明確に語られている。

わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
正しい者はいない。一人もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。

そして、それゆえ、神の裁きは全ての人に対して向けられていることが語られる。

すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

これらの表現に共通することは、何一つも妥協したり、例外を認めるようなことのない「全て」であり「完全に」ということである。
そんな「妥協なき」「例外なき」神の裁きのゆえに、神は御子イエス様を贖いの犠牲として十字架に捧げられたのである。
このことは一見厳しいことのように思えるが、だからこそ、私たちの救いも完全なものとなりうるのである。
誰一人、救われないことはないし、完全なる救いが約束されているのだ。
なんと有難いことであろう。
なんと幸いなことであろう。
十字架のイエス様を見あげ、このお方の御業のゆえに、私の救いも完全であることを覚えつつ、感謝と平安のうちに歩ませていただきたいものである。