ヨシュア記6章22~27節、詩篇116篇1~9節、マタイ21章23~32節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨシュア記 6:22 ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
6:23 斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
6:24 彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。
6:25 遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は 主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い 城門を建てたときに末子を失う。」
6:27 主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

マタイ 21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」




エリコ攻略のために尽力したラハブは、遊女であり、きっとエリコの町の人たちからはラハブはもちろんのこと、家族や親族一同、人々から見下されていたものと思われる。
そういった理由もあってであろうか、ラハブはエリコの町の人たちよりも、イスラエルの人たちに味方し、エリコ攻略の手助けをすることとなったのかもしれない。
人がどんな仕事に携わっていようと、同じ人間であり、今の時代なら、人権を尊重し、差別をしてはならないといったことが叫ばれるようになっているが、当時のイスラエルの社会では、そういったことはお構いなしで、ある人たちは「汚れたもの」として扱われたり、人としてではなく、なにか汚れた動物でも見るかのような接し方をしていたのかもしれない。
しかし、どんなに時代が変わろうと、人権が声高に叫ばれようと、人間社会において、差別や偏見は無くならない。
人間が罪人であり、自己中心的な存在である以上、それは避けることのできない問題なのだろう。
祭司長や民の長老たちは、イエス様が神の言葉を教えたり、困っている人を助けたりしているのをみて、いったい何の権威でそのようなことをするのかと批判しているが、困っている人や苦しんでいる人を助けたりすることに、いったいどんな権威が必要だというのだろう。
できることは、誰の許可を得ずとも、すれば良いだけのことであろう。
また癒される人、救われる人の側にも、なんの差別もあってはならない。
誰もが救われるべきであり、滅んでいい人などこの世界には一人もいないし、少なくとも、主なる神様はそう願っておられる。

Ⅰテモテ神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。