サムエル記上21章1~6節、詩篇78篇1~4.52~72節、ヨハネ5章1~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル記上 21:1 ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。
21:2 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」
21:3 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。
21:4 それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」
21:5 祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」
21:6 ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」

詩篇 78:1  マスキール。アサフの詩。 わたしの民よ、わたしの教えを聞き わたしの口の言葉に耳を傾けよ。
78:2 わたしは口を開いて箴言を いにしえからの言い伝えを告げよう
78:3 わたしたちが聞いて悟ったこと 先祖がわたしたちに語り伝えたことを。
78:4 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。
 78:52 神は御自分の民を羊のように導き出し 荒れ野で家畜の群れのように導かれた。
78:53 彼らは信頼して導かれ、恐れることはなかった。海が彼らの敵を覆った。
78:54 神は彼らを御自分の聖地の境にまで導かれた。右の御手をもって得られたその山に。
78:55 彼らの前から諸国の民を追い払い 彼らの嗣業を測り縄で定め イスラエルの諸部族を それぞれの天幕に住まわせられた。
78:56 彼らはいと高き神を試み 反抗し、その定めを守らず
78:57 先祖と同じように背き、裏切り 欺く弓で射た矢のようにそれて行き
78:58 異教の祭壇に仕えて神を怒らせ 偶像を拝んで神の激情を引き起こした。
78:59 神は聞いて憤り イスラエルを全く拒み
78:60 シロの聖所、人によって張られた幕屋を捨て
78:61 御力の箱がとりこになるにまかせ 栄光の輝きを敵の手に渡された。
78:62 神は御自分の民を剣に渡し 御自分の嗣業に怒りを注がれた。
78:63 火は若者をなめ尽くし おとめは喜びを奪われ
78:64 祭司は剣に倒れ やもめは嘆くことすらしなかった。
78:65 主は、眠りから覚めた人のように 酔いから覚めた勇士のように奮い立ち
78:66 敵を撃って退かせ とこしえに嘲られるものとされた。
78:67 主はヨセフの天幕を拒み エフライム族を選ばず
78:68 ユダ族と、愛するシオンの山を選び
78:69 御自分の聖所を高い天のように建て とこしえの基を据えた地のように建てられた。
78:70 僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り
78:71 乳を飲ませている羊の後ろから取って 御自分の民ヤコブを 御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。
78:72 彼は無垢な心をもって彼らを養い 英知に満ちた手をもって導いた。

ヨハネ 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。


安息日とは、ただ仕事を休んで何もしない日として一日を過ごせば良いというわけではない。

マルコ 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

安息日とは、イエス様が仰せられているように、命を救うために用いられるべき日である。
命を救うために、仕事を終えて心も体を休ませることも重要だが、それよりも大切な事は、神の救いの約束の言葉を聞いて、心から平安を頂くことであろう。
主なる神様は、御子イエス様をお送り下さり、私たちにはできない罪の贖いの御業を成し遂げて下さった。
私たちには不可能だったことを神は成し遂げて下さり、この救いの言葉を信じるだけで救われ、永遠の命を与えて頂けるのである。
だからこそ、御言葉を聞くことによって本当の安息を得ることができるのである。
願わくは、安息日はそのために用いたい。
主のみ前に静まり、救いの約束の言葉を聞き、同じ信仰を持つ人たちと共に喜び祝う。
私たちは、そのような幸いな交わりに毎週の礼拝に招かれていることを感謝しつつ、安息日を大切に過ごしたいものである。