ヨブ記6章1~13節、詩篇102篇13~29節、マルコ3章7~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨブ記 6:1 ヨブは答えた。
6:2 わたしの苦悩を秤にかけ わたしを滅ぼそうとするものを すべて天秤に載せるなら
6:3 今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ。
6:4 全能者の矢に射抜かれ わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。
6:5 青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。飼葉があるのに牛がうなるだろうか。
6:6 味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか。
6:7 わたしのパンが汚れたもののようになれば わたしの魂は触れることを拒むだろう。
6:8 神よ、わたしの願いをかなえ 望みのとおりにしてください。
6:9 神よ、どうかわたしを打ち砕き 御手を下し、滅ぼしてください。
6:10 仮借ない苦痛の中でもだえても なお、わたしの慰めとなるのは 聖なる方の仰せを覆わなかったということです。
6:11 わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。
6:12 わたしに岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか。
6:13 いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった。

詩篇 102:13 主よ あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。
102:14 どうか、立ち上がって シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。
102:15 あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み 塵をすら、どれほど慕うことでしょう。
102:16 国々は主の御名を恐れ 地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。
102:17 主はまことにシオンを再建し 栄光のうちに顕現されます。
102:18 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。
102:19 後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
102:20 主はその聖所、高い天から見渡し 大空から地上に目を注ぎ
102:21 捕われ人の呻きに耳を傾け 死に定められていた人々を 解き放ってくださいました。
102:22 シオンで主の御名を唱え エルサレムで主を賛美するために
102:23 諸国の民はひとつに集められ 主に仕えるために すべての王国は集められます。
102:24 わたしの力が道半ばで衰え 生涯が短くされようとしたとき
102:25 わたしは言った。「わたしの神よ、生涯の半ばで わたしを取り去らないでください。あなたの歳月は代々に続くのです。
102:26 かつてあなたは大地の基を据え 御手をもって天を造られました。
102:27 それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると すべては替えられてしまいます。
102:28 しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません。」
102:29 あなたの僕らの末は住むところを得 子孫は御前に固く立てられるでしょう。

マルコ 3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。


イエス様のところには、様々な苦しみに悩む人たちがイエス様に助けを求め、大勢の群衆が押し寄せていた。
イエス様もできるだけのことはしたが、全ての人の要望にこたえることはできなかったのではないだろうか。
時間の許す限り、可能な範囲で癒しの業も行われたのであろうけれど、あまりの人の多さに、かえって混乱が生じたり、人々がパニックになり、余計なトラブルに発展しないように、静かにそこを立ち去ることもせざるを得ないこともあったのだろう。
気持ちはあっても、体は一つしかないし、時間も力も限られている中で、私たちも何を、どうして行けば良いのか悩むこともある。
けれど、多くを悩んだところで、できないものはできないし、できることをやっていくしかない。
それはイエス様も同じであったし、決して無制限に無尽蔵に与え続けておられたわけではない。
むしろ、限られた時間、限られた働きだからこそ、そこで精一杯のことをしていくことが大切なのだろう。
困難なことや苦しいことは幾らでもあるし、それら全てを解決しようとしたところで、かえって疲れを増すことにもなりかねない。
そもそも、人にはできないからこそ、神ご自身が救いの御業を成し遂げられ、その救いの約束の言葉を恵みとして人間に与えられたのである。
無理を積み重ねていったところで、かえって良い成果は得られない。
時には徹底的に打ちのめされてしまうこともあるだろう。
けれど、私たちはそれでも生きているし、生かされている。
ボロボロであっても、生かされている。
そして、救われているという事実に変わりはない。
そこにある神の確かな恵みを見つめながら、たとえ苦難の中にあり続けたとしても、祈り続けていく者でありたい。