エレミヤ20章14~18節、詩篇62篇6~13節、ルカ10章13~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 20:14 呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
20:15 呪われよ、父に良い知らせをもたらし あなたに男の子が生まれたと言って 大いに喜ばせた人は。
20:16 その人は、憐れみを受けることなく 主に滅ぼされる町のように 朝には助けを求める叫びを聞き 昼には鬨の声を聞くであろう。
20:17 その日は、わたしを母の胎内で殺さず 母をわたしの墓とせず はらんだその胎を そのままにしておかなかったから。
20:18 なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

詩篇 62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。
62:10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12 ひとつのことを神は語り ふたつのことをわたしは聞いた 力は神のものであり
62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と ひとりひとりに、その業に従って あなたは人間に報いをお与えになる、と。

ルカ 10:13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
10:15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」



エレミヤ書の箇所には、自分の生まれた日を呪うという、とても悲しい嘆きの言葉が綴られている。
人が生きていくことは辛いことばかりで、いっそ生まれてこなかった方が良かった、と誰もが思った事もあるだろう。
こういった嘆きについては、旧約聖書のヨブ記が有名だが、ヨブ記は、この世界に生きることはなんと苦しく不条理に満ちているかといったことを思わせる内容と言えるかもしれないが、実際に読んでみると、主なテーマはこの世の不条理といったようなものではなく、いかに人間が頑なで自己中心的であるかということと、それもで神は人を救おうと願っておられることが浮かび上がってくる。
普段は誠実で神を畏れて生きていたはずのヨブでさえ、頑なで自己中心的な人間に過ぎないことを赤裸々にあぶりだされているのである。
ヨブは立派な人でも、愚かな人でもない、ごく普通の人間であり、私もヨブと変わらない。
どこまでも頑なで自己中心的な私ではあるが、神はそれでも見捨てられることなく、十字架の主のお姿を通して、あきらめずにずっと語りかけて下さるのだ。
ここにあなたの救いがある、と。
何が一番不幸であるか、神を見ようとせず、己の思いにしがみつき、心を頑なに、自己中心的な生き方を続けていることではないだろうか。
いち早くそれに気づき、恵みの神のみもとに立ち帰るならば、そこに救いはあり、まことの幸いがそこにあるのだ。

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。