エレミヤ20章7~13節、詩篇62篇6~13節、2ペテロ3章1~7節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 20:7 主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ 人が皆、わたしを嘲ります。
20:8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり 「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中 恥とそしりを受けねばなりません。
20:9 主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
20:10 わたしには聞こえています 多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて 我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
20:11 しかし主は、恐るべき勇士として わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき 勝つことを得ず、成功することなく 甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない とこしえの恥辱である。
20:12 万軍の主よ 正義をもって人のはらわたと心を究め 見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け お任せします。
20:13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を 悪事を謀る者の手から助け出される。

詩篇 62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。
62:10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12 ひとつのことを神は語り ふたつのことをわたしは聞いた 力は神のものであり
62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と ひとりひとりに、その業に従って あなたは人間に報いをお与えになる、と。

2ペテロ 3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
3:2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
3:3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
3:4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
3:5 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
3:6 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
3:7 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。


いつの時代でも、御言葉を語る者に対する人々の態度というのは、気まぐれで的外れなものとなりがちである。
なぜなら、人はみな、自分のことしか考えてないし、自分の都合や思考を優先し、他者の意見を聞く耳など持っていないからである。
そういう人は、結局のところ、神を見ておらず、自分自身をみているだけであり、何か問題が起きた時や、困難な状況に陥った時には、誰かに責任を押し付け、自分を守ろうとするのである。
人はみな罪人である。
しかし、主なる神様は、そんな罪人を救おうとされた。
自分勝手で頑なな心を持つ人々に、無償の愛を与えようと御子イエス様の命を犠牲に差し出して下さった。
だから、このことを宣べ伝える働きは、困難を極めて当然である。
それでも語り続けるしかない。
神は常に真実なお方だから。
人間がどれだけいい加減で邪悪な存在であったとしても、である。
聖書の御言葉に聞き従うかどうかは、一人一人の問題であり、強制はできないが、それでも御言葉を語る主体は神ご自身であられるのなら、きっとその実りも見せて頂けることであろう。
願わくは、傲慢な心を砕き、ただただ神の恵みと憐れみだけを語り継ぐものとならせていただけるように。