イザヤ49章5~15節、詩篇148篇、マタイ12章46~50節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために 母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主は
49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
49:7 イスラエルを贖う聖なる神、主は 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が あなたを選ばれたのを見て。
49:8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて 民の契約とし、国を再興して 荒廃した嗣業の地を継がせる。
49:9 捕らわれ人には、出でよと 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
49:9 彼らは家畜を飼いつつ道を行き 荒れ地はすべて牧草地となる。
49:10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
49:11 わたしはすべての山に道をひらき 広い道を高く通す。
49:12 見よ、遠くから来る 見よ、人々が北から、西から また、シニムの地から来る。
49:13 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。
49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。
49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。

詩篇 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
148:2 御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
148:3 日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
148:4 天の天よ 天の上にある水よ主を賛美せよ。
148:5 主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
148:6 主はそれらを世々限りなく立て 越ええない掟を与えられた。
148:7 地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
148:8 火よ、雹よ、雪よ、霧よ 御言葉を成し遂げる嵐よ
148:9 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
148:10 野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ
148:11 地上の王よ、諸国の民よ 君主よ、地上の支配者よ
148:12 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。
148:13 主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。
148:14 主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。

マタイ 12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


イザヤ書には、主の僕に関する預言の言葉が記されている。
そこには、主なる神様がイスラエルの民を救うメシアなる僕を立てられ、その僕が多くの試練や迫害を受けようとも、イスラエルに救いをもたらしていく者となるであろうことが語られていると言えよう。
一方で、聖書の別の箇所では、その救いの言葉を全世界に宣べ伝えていくために、主なる神がイスラエルの民を選ばれたことも語られている。
前者はダビデやソロモンのような王をイメージしやすいが、後者は、イスラエルの民全体を指し示すならば、彼らは救われる側の人たちでもあり、主の僕としての選びということを適える時、定義があいまいなものとなってしまう。
これらを整理して理解するためには、イエス様の働きと、それによって救われた私たちの立ち位置を思う時に、その意味も見えてくるだろう。
イエス様は主の僕として、私たちを救うために十字架で死んで下さったお方である。
この点では、イザヤ書などで語られている主の僕とはイエス様のことを指していることはあきらかであろう。
一方で、イエス様を救い主として信じて救われた私たちは、一切の罪が赦され、神の目には、まるでイエス様と同じで聖なる神の子であるかのようにみなされるのであり、そういう意味では、神に選ばれたイスラエルの民のごとく、主の僕としての意味合いも持つこととなる。
つまり、私たちはイエス様を信じることで、イエス様と一体となっているのであり、イエス様を頭とする一つの体の一部として、主の僕と言えるのである。
主の僕なるイエス様の十字架の贖いの御業によって救て頂いた私たちが、イエス様と一つに結び合わされ、主の僕として、イエス様と共に救いの約束を宣べ伝えていくことができるとは、なんと幸いなことであろう。