列王記上18章1~18節、詩篇125篇、エフェソ6章10~17節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記上 18:1 多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」
18:2 エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけた。サマリアはひどい飢饉に襲われていた。
18:3 アハブは宮廷長オバドヤを呼び寄せた――オバドヤは心から主を畏れ敬う人で、
18:4 イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、百人の預言者を救い出し、五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った――。
18:5 アハブはオバドヤに言った。「この地のすべての泉、すべての川を見回ってくれ。馬やらばを生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない。」
18:6 彼らは国を分けて巡ることにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバドヤも一人でほかの道を行った。
18:7 オバドヤが道を歩いていると、エリヤが彼に会いに来た。オバドヤはそれがエリヤだと分かって、ひれ伏し、「あなたは、エリヤさまではありませんか」と言った。
18:8 エリヤは彼に言った。「そうです。あなたの主君のもとに行って、エリヤがここにいる、と言ってください。」
18:9 オバドヤは言った。「わたしにどんな罪があって、あなたは僕をアハブの手に渡し、殺そうとなさるのですか。
18:10 あなたの神、主は生きておられます。わたしの主君があなたを捜し出そうとして人を送らなかった民や国はないのです。彼らが、『エリヤはここにいない』と言えば、王はその国や民に、エリヤは見つからなかったと誓わせるほどです。
18:11 今あなたは、『エリヤがここにいる、とあなたの主君アハブに言いに行きなさい』と言われる。
18:12 しかし、わたしがあなたを離れれば、主の霊はあなたをわたしの知らないところに連れて行くでしょう。わたしがアハブに知らせに行っても、あなたが見つからなければ、わたしは殺されます。僕は幼いころから、主を畏れ敬っております。
18:13 イゼベルが主の預言者を殺したときにわたしがしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。わたしは主の預言者百人を五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。
18:14 今あなたは、『エリヤがここにいる、とあなたの主君に言いに行きなさい』と言われる。わたしは殺されてしまいます。」
18:15 エリヤはこう答えた。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現します。」
18:16 オバドヤはアハブに会って知らせたので、アハブはエリヤに会いに来た。
18:17 アハブはエリヤを見ると、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言った。
18:18 エリヤは言った。「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。

詩篇 125:1  都に上る歌。 主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。
125:2 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる 今も、そしてとこしえに。
125:3 主に従う人に割り当てられた地に 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。
125:4 主よ、良い人、心のまっすぐな人を 幸せにしてください。
125:5 よこしまな自分の道にそれて行く者を 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。

エフェソ 6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。



預言者エリヤが活動した時代は、アハブがイスラエルの王となり、イスラエル全土を偶像の神々を礼拝する国家へと変貌させてしまっていた。
そんな中、預言者エリヤは逃亡生活を強いられるなど、まことの神を信じる者たちはみな、身をひそめるように、本心を隠しながらの生活を強いられていたことであろう。
アハブに仕えていたオバドヤも、アハブに見つからないところで真の預言者らを助けるなど、自分たちにできる範囲で戦っていた。
見つかれば、ただちに処刑されるかもしれない危険と隣り合わせのなか、どんなに神経をすり減らせながら生きていたことであろうか。
オバドヤのもとにエリヤが現れた時は、嬉しい気持ちもあったに違いないが、アハブに知らせるよう頼まれ、それがどれほど恐ろしいことになりかねない事なのかを知っているオバドヤにとっては、簡単には従えない申し出に思えたことであろう。
それでもオバドヤはエリヤの言葉を信じ、エリヤのことをアハブに告げ、ついにアハブとエリヤは対面することになるのである。
信仰者の置かれている環境というものは、いつの時代でも平穏で幸いなものばかりではなく、むしろ、いつも困難と危険が隣り合わせにあるような状況のほうが多いのかもしれない。
しかし、だからこその信仰なのではないだろうか。
何もかもが満ち足りていて、何も祈る事もないような環境なら、それこそ、神に祈り求めることもないわけだから、必要性も感じないだろう。
私たちの置かれている環境も、常に困難と危険と隣り合わせで、どちらかと言うと、希望を見いだしにくい闇のような世界に近いのかもしれない。
それでも、主なる神様は、そんな闇のような世界に光として来られた。
神は約束を違えるようなお方ではない。
今年のクリスマスも、暗闇のような世界に、まことの光をもたらすためにイエス様が来て下さったことを覚えたい。
そして、どんなにささやかな交わりでも、共にお祝いしたい。