ゼカリヤ13章1~9節、詩篇80篇2~8,18~20節、黙示録14章6~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ゼカリヤ 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。
13:2 その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。
13:3 それでもなお預言する者がいれば、彼はその生みの親である父からも母からも、「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」と言われ、その預言のゆえに生みの親である父と母によって刺し貫かれる。
13:4 その日、預言者たちは皆、預言をしても自分の幻のゆえに恥を受け、欺くための毛皮の外套を着るのをやめ、
13:5 「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ。わたしは若いときから土地を所有している」と言う。
13:6 また、「あなたの胸にあるこの傷はどうしたのか」と問われると、「それは友人の家で受けたものだ」と答えるであろう。
13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。
13:8 この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。
13:9 この三分の一をわたしは火に入れ 銀を精錬するように精錬し 金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え 「彼こそわたしの民」と言い 彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

詩篇 80:2 イスラエルを養う方 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください
80:3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい わたしたちを救うために来てください。
80:4 神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:5 万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。
80:6 あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ なお、三倍の涙を飲ませられます。
80:7 わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ 敵はそれを嘲笑います。
80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。
80:19 わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。

黙示録 14:6 わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、
14:7 大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」
14:8 また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」
14:9 また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、
14:10 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。
14:11 その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」
14:12 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。
14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」



羊の群れを導く羊飼いの仕事は、実に困難なものであると言えるだろう。
なぜなら、羊は一匹ではなく、多くの羊たちがいるからであり、それぞれが好き勝手に行動するから、である。
だから、どんなに数が多くなっても、結局は一対一で相手をしなければならないことになる。
それは人間でも同じ。
一人一人がそれぞれの思いや考えを持って生きているため、十把一絡げのようにはいかない。
しかも、求めているものや、願っていることなどが、みな違う。
本人にとっては、素晴らしいものと思っていても、別の人には何の価値もないどころか、害悪に思えるようなこともあるだろう。
多くの人が集まるところで、様々なことが一致していくなどということは、もともとも不可能なことなのだろう。
そのような状況下にあって、私たちはキリストの救いの約束にあって一つとされている。
救われた者として、同じ仲間である。
考え方の違いや思考の違いなどはあっても、一致できることは必ずある。
その点については譲れないけれど、他のことについては、ある程度、寛容になってもいいのではないだろうか。
「私だけが正しく主を信じており、私だけが真実を知っている」と思うのは良いが、それによって「自分自身」を神とし、偶像を礼拝していないだろうか。
本当の神を見上げた時、人は己の罪深さにざんげするほかないはずであろう。
けれど、本当の神のところには赦しと救いがあるのだから、きっと、そこには幸いがある。
己の考えでもたらされる偽の幸いに縛られず、本当の幸い、本当の平安のあるところに心の目を向けて歩んでいきたい。