申命記10章10~22節、詩篇119篇41~48節、ヤコブ2章14~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 10:10 わたしは前と同じように、四十日四十夜、山にとどまっていたが、このときも主はわたしに耳を傾け、あなたを滅ぼそうとはされなかった。
10:11 主はわたしに言われた。「立って、民を先導して進みなさい。彼らは、わたしが先祖に与えると誓った土地に入り、それを得る。」
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
10:13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
10:14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
10:15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
10:16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。
10:17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
10:19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
10:20 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
10:21 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。
10:22 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。

詩篇 119:41 主よ、あなたの慈しみと救いが 仰せのとおり、わたしを訪れますように。
119:42 わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。
119:43 真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。
119:44 わたしがあなたの律法を守る者でありますように 常に、そしてとこしえに。
119:45 広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。
119:46 わたしは王たちの前であなたの定めを告げ 決して恥とすることはないでしょう。
119:47 わたしはあなたの戒めを愛し それを楽しみとします。
119:48 わたしはあなたの戒めを愛し それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。

ヤコブ 2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。


宗教改革を進めて行ったマルティン・ルターは、ヤコブの手紙について「わらの書簡」と表し、信仰よりも行いを重視する考え方を警戒していたものと思われる。
しかし、ヤコブの手紙も聖書の御言葉に違いなく、これらの勧めの言葉も尊重するべきであることは確かなことであろう。
行いの信仰は死んだも同然というのは、少々厳しい言葉のように聞こえなくはないが、行いによっては救いの約束を得ることができないものの、救われた者が救われた者としてその信仰を行動に現わしていくことは大切なことである、ということであろう。
救われたことを信じているのならば、その生き方も変えられていくことであろう。
ただ、人にはそれぞれ性格や能力に違いもあるし、救われたからと言って罪人である本質が変わるわけでもないから、なかなか愛の人として生きていくことは難しいし、誰にでもできることではないかもしれない。
あるいは、自分では良かれと思ってやったことが必ずしも隣人にとって益となったり助けとならないこともあるだろう。
愛の行動とは、口で言うほど簡単な事ではないのも事実である。
けれど、では自分には何ができるのかと吟味しながら、どうすれば周りの人に愛を示していくことができるだろうかと考えながら生きていれば、自ずと、自分のやるべきことは見えてくるのかもしれない。
御言葉に聞き、祈り求めていくことも、広い意味で行いの範疇に含まれていると言えるだろうし、まずはそこから始めていこう。