申命記9章25節~10章5節、詩篇1篇、テトス2章6~8,11~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 9:25 わたしは、四十日四十夜、主の御前にひれ伏した。主があなたたちを滅ぼすと言われたからである。わたしはひれ伏して、
9:26 主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。
9:27 あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。
9:28 我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。
9:29 彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
10:1 そのとき、主はわたしに言われた。「あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。
10:2 わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。」
10:3 わたしがアカシヤの木で箱を作り、石を切って前と同じように二枚の板を造り、それを手に携えて山に登った。
10:4 主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた。
10:5 わたしは身を翻して山を下り、あらかじめ作っておいた箱に板を納めた。それは今も、主がわたしに命じられたとおりそこにある。

詩篇 1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

テトス 2:6 -7同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、
2:8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


歳をとると、何度も同じ話しを繰り返して話してしまうことがある。
ある年老いた信徒の方が「壊れたレコードみたいに何度も同じ話しをして申し訳ない」とおっしゃるので「こちらも壊れたレコーダーみたいなものですからお互い様です」と言うと、笑っておられた。
「壊れたレコード」とは、すなわち、聞いても覚えていないか、そもそも初めから聞いていないということであり、少々失礼な返しではあると思うが、笑って下さるので由としている。
冗談はさておき、歳をとると同じ話しを何度も繰り返してしまうのは、単に話したことを忘れているだけではなく、それが大事なことだと思っているからなのだろう。
もちろん、話し手にとって大事なことが必ずしも聞き手にも大事なこととは思えないこともあるかもしれないが、少なくとも「あなたには大事なことを知って欲しい」と思って話して下さるのだから、壊れたレコーダーのようでも、耳を傾けて差し上げることは大切なことなのだろうと思う。
聖書のメッセージはどうだろうか。
何千年と、同じメッセージが語り続けられている。
何度も聞いた話しだと思うかもしれないが、少なくとも、昨日の私と今日の私は違う時代を生きている。
キリスト教に入信した頃に学んだから、もう同じことは学ぶ必要はない、と考える人もいるかもしれないが、特別に新しい発見や教えられることが無くても、仮に繰りかえし同じことを学ぶことになっても、神の御言葉に聞いていくことは、それ自体、新たな命を与えられるようなものなのかもしれない。

ヘブル3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」

と語られている通りである。

特に年を取ると、忘れっぽくなる。
昨日食べた食事を忘れるように、昨日聞いた御言葉を、今日にはもうすでに忘れてしまっていることも多い。
だから毎日聞き続けていくことが大切なのだろう。
毎日でなくても、せめて週に一度は礼拝に集い、そこから御言葉を聞き、学び続けていけばよい。
それが信仰者として生きるということなのだろう。

フィリピ3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。