エゼキエル書18章11~18節、詩篇138篇、1コリント6章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル書 28:11 主の言葉がわたしに臨んだ。
28:12 「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。お前はあるべき姿を印章としたものであり 知恵に満ち、美しさの極みである。
28:13 お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶 かんらん石、縞めのう、碧玉 サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で お前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。
28:14 わたしはお前を 翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて 火の石の間を歩いていた。
28:15 お前が創造された日から お前の歩みは無垢であったが ついに不正がお前の中に 見いだされるようになった。
28:16 お前の取り引きが盛んになると お前の中に不法が満ち 罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し 翼で覆うケルブであるお前を 火の石の間から滅ぼした。
28:17 お前の心は美しさのゆえに高慢となり 栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし 王たちの前で見せ物とした。
28:18 お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って 自分の聖所を汚した。それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ お前を焼き尽くさせた。わたしは見ている者すべての前で お前を地上の灰にした。
28:19 諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆 お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし とこしえに消えうせる。」

詩篇 138:1  ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

1コリント 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
6:3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
6:4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6:6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
6:11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。



残念な事ではあるが、教会の中でも様々な批判や裁きが行われることがある。
当人としては、聖書に基づいて判断し、行動しているつもりなのだろうけれど、イエス様が命を捨ててまで愛し、赦そうとされた救いの御業をベースとする教会には、批判や裁きといたことは、ふさわしいことではない。
もっとも、そういった裁かれるような事柄があること自体が問題なのかもしれないが、それでもイエス様は自らの命を犠牲にしてまで、私たちを赦そうとしてくださったのである。

ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネ3章16節の御言葉は、とても有名な言葉ではあるが、その次の17節にも大切な事が語られている。
イエス様は世を裁くために来られたのではなく、私たちの身代わりとなって御自分が裁かれることで、私たちへ向けられた裁きの全てを引き受けて下さったのである。
本当に正しい裁きとは、イエス様の十字架のゆえに赦されているということを伝えることによって成立するのだろう。
ならば、私体が安易に他者を裁くようなことをすべきではないし、誰かを批判する前に、まずは相手も自分もイエス様の十字架の贖いのゆえに赦されてここにいることを伝えたい。
様々な問題を解決していくことは難しいことだが、どんな状況であろうと、イエス様の愛と赦しを伝えていくことを大切にしていきたいものである。