イザヤ書66章18~23節、詩篇87篇、マタイ8章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ書 66:18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
66:20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
66:21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
66:22 わたしの造る新しい天と新しい地が わたしの前に永く続くように あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと 主は言われる。
66:23 新月ごと、安息日ごとに すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと 主は言われる。

詩篇 87:1  コラの子の詩。賛歌。歌。 聖なる山に基を置き
87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される シオンの城門よ。
87:3 神の都よ あなたの栄光について人々は語る。
87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。
87:5 シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。
87:6 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。
87:7 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

マタイ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。


イエス様のもとには大勢の群衆が従っていた。
しかし、イエス様が病気を癒されたりされたのは、一部の限られた人たちであったように見える。
イエス様は、限定的な仕方でしか働かれないようにも見えるが、実はそうではない。
限定的なのは、人間の側の信仰に問題があるからである。
つまり、信じる人と信じない人がいて、信じる人のほうが少なく、しかも、ふわふわと揺るぎがちな信仰しか持っていないからであろう。
もっと確信をもってイエス様を信じたいとも思うが、いかんせん、人間の信仰は、みな同じようなもの。
そんな中にあっても、揺るぎない信仰を持ってイエス様のもとに頼ってきた人もいる。
そういう人の周りで、神の御業は現わされていく。
実は神の御業はいつでも私たちの側で現わされようとしているのだ。
あとは私たちがそれを信じるかどうかだけである。
疑いの心をもって神の御業を見逃していくか、揺るぎない信仰を持って神の御業を目撃していくか、どちらを選ぶかは私たちの自由であるが、できるならば、後者を選びたい。
神の恵みの御業が、私たちの周りで次々と現わされていくように願いつつ、信仰を持って歩んで行きたいものである。