レビ記 15:25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。
15:26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。
15:27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。
15:28 彼女が出血の汚れから清くなり、七日間が過ぎたならば、その後は清くなる。
15:29 八日目に、彼女は二羽の山鳩か家鳩を調え、それを臨在の幕屋の入り口で祭司に渡す。
15:30 祭司は一羽を贖罪の献げ物、他の一羽を焼き尽くす献げ物として主の御前にささげ、彼女の異常出血の汚れを清めるために贖いの儀式を行う。
15:31 あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。
22:1 主はモーセに仰せになった。
22:2 アロンとその子らに告げなさい。聖なるわたしの名を汚さぬよう、イスラエルの人々がわたしに奉納する聖なる献げ物に細心の注意を払いなさい。わたしは主である。
22:3 また彼らに告げなさい。あなたたちの子孫のうちだれであれ、イスラエルの人々が主に奉納する聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
22:4 アロンの子孫であって、皮膚病にかかっている者や、漏出のある者はだれも、清くなるまでは聖なる献げ物を食べてはならない。死体に触れて汚れた者、精の漏出があった者、
22:5 あるいは人を汚れさせる爬虫類、人を汚れさせる人間に触れた者は、その汚れの種類を問わず、
22:6 すべてその日の夕方まで汚れている。彼は身を洗うまでは聖なる献げ物を食べることができない。
22:7 日没になれば彼は清くなり、それ以後は聖なる献げ物を食べることができる。それは彼の食物だからである。
22:8 死んだ動物や野獣にかみ殺された動物を食べて身を汚してはならない。わたしは主である。
22:9 わたしの命令を守りなさい。それを破って罪を負い、それを汚して死を招いてはならない。わたしは彼らを聖別する主である。
詩篇 40:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
40:2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
40:3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ
40:4 わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。
40:5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず 欺きの教えに従わない人は。
40:6 わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。
40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。
2コリント 6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」
7:1 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。
何が正しいことで、何が正しくないことであるかといったことは、自分の価値観だけでは測れないところがある。
自分では良かれと思ってしたことも、他者にとっては迷惑でしかないこともありうるし、他者がどう思うかを知る事は、もっと難しい。
近年、セクハラとかパワハラといった、ハラスメント行為が取りざたされることが多くなってきたが、相手がどう思うかによってハラスメントになりうるというのでは、相手に悪意があればいくらでもハラスメントとなりうることを示している。
いじめた側にいじめの認識はなくても、いじめられた側がいじめられたと受け取っているなら、それはいじめである、というのと似ているが、ハラスメントの類は、もっと複雑で、当人には善意の言動であったつもりがハラスメント扱いされたりすることもあるために、なかなか難しい。
もっとも、あんまり神経質になりすぎるのも好ましいことではないし、そこはもう、ハラスメントとして受け止められたなら、素直に謝り、今後は言動に気を付けることくらいしかできないだろう。
先日、ある方が「イエス様が十字架で死なれることで罪赦されるという意味が、いまいちよくわからない」といったことを話しておられた。
クリスチャンではない人にとっては当然のことであろうし、仮にクリスチャンであっても、いまいちピンときていない人もいるのかもしれない。
自分の罪に対する意識というのは、とてもデリケートなことであるし、本人の罪の自覚があるかどうかも含めて、何をもって罪を犯していると言えるのかといったことは、なかなか難しい問題であろう。
はっきりと犯罪に加担する行為であったり、明確に他人や社会に迷惑をかけている事であるならば、それは分かりやすいことなのかもしれないが、神に対して罪を犯しているという認識は、多くの人にとって、なかなか分かりにくいことであろうし、分かりにくいところに罪の本質があるように思う。
なぜなら、自分自身が神となり、自分自身で善悪の基準や判断をなしているからである。
他人からちょっとしたことを注意されて、怒り狂っているようではダメであろう。
周りの人からは、そんな風に見えているのだということを教えてもらえたと感謝できるようになれればいいけれども、そこが難しいところ。
本当は汚れたものなのに、自分では正しい人と思っている。
滑稽ではあるが、その滑稽さに気づかされ、本当の意味で義とされた者として生きられるよう、真実な神の御言葉に聞き、真摯に己の罪と向き合い、それを赦し、きよめ、神の民としてくださるという聖書の約束に信頼し、幸いな自分自身を見いだしていきたいものである。