列王上17章17~24節、詩篇143篇、使徒20章7~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王上 17:17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。
17:20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」
17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
17:23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。
17:24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

詩篇 143:1  賛歌。ダビデの詩。 主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって わたしに答えてください。
143:2 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません。
143:3 敵はわたしの魂に追い迫り わたしの命を地に踏みにじり とこしえの死者と共に 闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
143:4 わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫けます。
143:5 わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらします。
143:6 あなたに向かって両手を広げ 渇いた大地のようなわたしの魂を あなたに向けます。
143:7 主よ、早く答えてください わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。
143:8 朝にはどうか、聞かせてください あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
143:9 主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。
143:10 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください。
143:11 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ 恵みの御業によって わたしの魂を災いから引き出してください。
143:12 あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。

使徒 20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
20:8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
20:9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
20:11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。



昔ながらの日本語にはなかった「心が折れる」という表現は、とあるアスリートの人が言い始めたことから、一般的にも用いられるようになったようである。
固くてめったに折れることのない骨が折れてしまうように、ある日、ポッキリと骨が折れてしまったかのように、強靭なはずの心も折れてしまう。
すると、骨が体を支えていたように、心もまた人の言動の全てを支えていくためには、とても重要なもの。
そんな心が折れてしまう人が後を絶たない。
誰もが疲弊し、生きていくためのモチベーションを維持することすら困難となっているように思われる。
そんな世界にあって、なにが人を生かすことができるだろう。
死にかけているような人を、どうやって再び生き返らせることができるだろう。
旧約聖書ではエリヤが、新約聖書ではパウロが人を生き返らせたかのように記されているが、彼らは神に祈っただけであり、人を生き返らせることができるのは、神にしかできないことである。
だから私たちも神に祈る。
人の手によっては、手の施しようのない状態であったとしても、神はその人を生き返らせ、永遠の命へと導いて下さる。
それが聖書に約束された、私たちの信仰である。
人の業は空しいもの。
しかし、神の御業は希望がある。
慰めがある。
祝福がある。
そして、命がある。
心が折れそうな時こそ、聖書の御言葉に聞き、信じて歩んで行こう。