イザヤ29章13~16節、詩篇112篇、マルコ7章1~8節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される。」
29:15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか 誰が我らに気づくものか」と。
29:16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか 「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか 「彼には分別がない」と。

詩篇 112:1 ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。
112:2 彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
112:3 彼の家には多くの富があり 彼の善い業は永遠に堪える。
112:4 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
112:6 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
112:7 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
112:8 彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。
112:9 貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
112:10 神に逆らう者はそれを見て憤り 歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。

マルコ 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」


イスラエルの民は、かつてエジプトでの奴隷生活や、バビロンでの捕囚としての生活を強いられ、そうなった原因は、自分たちが神の御言葉をおろそかにし、勝手気ままに歩んできたからだと考えるようになり、そこから、これからは神の教えを第一にし、律法を厳格に守ろうとする考え方が広まっていったようである。
しかし、そうした考え方は、やがてその目的からそれ、次第に律法の掟を守る事だけが重視されるようになり、いつしかどれだけ律法の掟を守っているかということを競い合うような人たちが現れ、自分たちこそそれらを完全に守れていると考える人たちがファリサイ派として、どれだけ律法について詳しい知識を持っているかどうかで律法学者といったグループが形成されていったようである。
彼らの関心事は、どれだけ律法を守れているか、あるいは知っているかであり、自分たちのすごさを周囲に示すのが目的であり、神と隣人を愛し、仕えていくための戒めという、その本来の意図とは全く反対の方向へ梶を切ってしまっている。
だから、彼らの律法の用い方は、とにかく自分の義を見せつけ、他者をさげすむことでしかない。
現代の教会でも、こうした傾向は律法主義として時おり見かけることはある。
人は罪深く、自己中心的な存在だから、意図してではなくても、知らず知らずのうちにこうした律法主義に走りやすい。
近年よく耳にするようになったハラスメントなども、言っている人にそのような意識がなくても、受け取める側が不快感を感じているなら、れっきとしたハラスメントと言えるのだそうである。
相手にどう思われるかというのは、とても大事なことではあるというのは分かっているが、我々も完璧に人と接することなどできない。
けれども、せめて、相手に喜んでもらえるにはどうすれば良いか、どんな振舞いをしていけばいいかといったことを考えるだけでも尊いことであろう。
少なくともイエス様はそういうお方である。
相手のことを思い、その人が救われるために、御自分の命を犠牲にしてまで仕えて下さったお方である。
律法主義の反対はなんだろうか。
福音主義?そんな言葉もごくたまに聞くこともあるが、こうしたイエス様的な考え方、行動、交わりが拡がっていくことを願うものである。