イザヤ29章1~12節、詩篇112篇、ヤコブ3章13~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 29:1 ああ、アリエルよ、アリエルよ ダビデが陣を張った都よ。年毎に、祭りの数を増し、巡り来らせよ。
29:2 そのとき、わたしはアリエルを苦しめる。アリエルには嘆きと、ため息が臨み 祭壇の炉(アリエル)のようになる。
29:3 わたしはお前を囲んで陣を張り 砦を築き、城壁を建てる。
29:4 お前は倒されて地の下から語り お前の言葉は塵の下から鈍く響く。亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ お前の言葉は塵の下からかすかに響く。
29:5 群がる外敵は砂塵のようになり 群がる暴虐の者らは 吹き去られるもみ殻のようになる。そのことは突然、瞬く間に起こる。
29:6 万軍の主によってお前は顧みられる。雷鳴、地震、大音響と共に つむじ風、嵐、焼き尽くす炎のうちに。
29:7 アリエルを群がって攻撃する国はすべて 夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み 苦しめる者はすべて。
29:8 「飢えた者が夢を見た。見よ、彼は食べていた。だが目覚めてみると、彼は空腹のままであった。渇いた者が夢を見た。見よ、彼は飲んでいた。だが、目覚めてみると、疲れ果てて渇いたままだ。」シオンの山に群がって戦いを挑んだ国は すべてこのようになる。
29:9 ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
29:10 主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ お前たちの目である預言者の目を閉ざし 頭である先見者を覆われた。
29:11 それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。
29:12 字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。

詩篇 112:1 ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。
112:2 彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
112:3 彼の家には多くの富があり 彼の善い業は永遠に堪える。
112:4 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
112:6 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
112:7 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
112:8 彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。
112:9 貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
112:10 神に逆らう者はそれを見て憤り 歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。

ヤコブ 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。
3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。



完璧な人間などいない。
だから、どんなに誠実に生きようとしていても、過ちや失敗を犯すこともあるだろう。
しかし、そう言う時にこそ、その人の本質が現れる。
自分の過ちを認め、素直に謝ることができるならば、その人は必ず祝福されるだろうし、そのような人こそまことの知恵者と言えるだろう。
一方で、己の立場を守ろうと自己保身に走ったり、少しでも自分をよく見せようとして、偽りの自分を演じてしまうような人は、自分の中に生じる矛盾によってやがて苦しむことになるだろうし、仮に自己矛盾に対して何らとがめを感じなくても、周囲の人との関係は好ましい物とはならないだろう。
誠実に生きるということは、良いことも悪いこともありのままを認め、受け入れ、素直に感謝を表すことができたり、謝ったりすることのできる生き方と言えよう。
ちなみに、間違いを認めて訂正するだけでは不十分で、それによって迷惑をかけた周囲の人たちに真摯に謝ることができて、はじめて本当の意味での悔い改めと言えるだろう。
善悪や真偽をただすことよりも、人との関係を大切にしていくことの方が、よっぽど大切なことだからである。
イエス様の十字架は、正しいか正しくないかと言えば、罪を犯したことがない人が罪人の身代わりで死ぬのだから、見方によっては正しくない。
しかし、それでもイエス様は私たちを愛し、救おうとされた。
それほどに、私たちの救われることが大切であったということ。
素直に謝る事で隣人との関係が改善されるのなら、神と人との前に誠実に謝ることのできる者でありたいものである。