ゼカリヤ8章1~17節、詩篇42篇、マタイ8章14~17,28~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ゼカリヤ 8:1 万軍の主の言葉が臨んだ。
8:2 「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。
8:3 主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
8:4 万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には 再び、老爺、老婆が座すようになる それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
8:5 都の広場はわらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いさざめく。
8:6 万軍の主はこう言われる。そのときになって この民の残りの者が見て驚くことを わたしも見て驚くであろうかと 万軍の主は言われる。
8:7 万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも わたしはわが民を救い出し
8:8 彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり わたしは真実と正義に基づいて 彼らの神となる。
8:9 万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなたたちは、近ごろこれらの言葉を 預言者の口から、度々聞いているではないか。万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ 再建が始まった日から。
8:10 以前には、人間の働きに報いはなく 家畜も、働きの報いに何の食も得なかった。出入りするにも 安全に敵から守られてはいなかった。わたしがすべての人を 互いに思うがままにさせておいたからだ。
8:11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して 以前のようではない、と万軍の主は言われる。
8:12 平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び 大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に これらすべてのものを受け継がせる。
8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よ あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが 今やわたしが救い出すので あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。
8:14 まことに、万軍の主はこう言われる。あなたたちの先祖がわたしを怒らせたので、わたしはかつて、あなたたちに災いをくだす決意をして悔いなかった、と万軍の主は言われる。
8:15 そのように、今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない。
8:16 あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき 平和をもたらす裁きをせよ。
8:17 互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む」と 主は言われる。

詩篇 42:1  指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。
42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。
42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。
42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。
42:7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
42:8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。
42:10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか。」
42:11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う 「お前の神はどこにいる」と。
42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

マタイ 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。



私たちに救いをもたらすことのできるお方は、御自分の命を十字架に捧げて、私たちの全ての罪を贖って下さったイエス様を置いて他にはいない。
そのため、イエス様に対し、感謝の心を持って向き合う事は良いことである。
一方で、私たちのために十字架で死んで下さるようなお方は、イエス様を置いて他にいないのだから、私たちは、イエス様以外のものに十字架を、すなわち、私たちのうちにある罪の責任や裁きなどを押し付けてはいけないのである。
端的に言えば、善を追求するがために、不平不満や呪いや迫害の言葉などを、人に向けて語るべきではない、ということであろう。
誰もがイエス様の前では感謝な心で麗しい言葉で祈るのに、かたや人間に対しては批判の言葉や怒りに満ちた言葉を平気で投げつけてしまう。
本当は逆であるべきなのだ。
愚かな言葉を直接投げつけても良いのは、実はイエス様の方なのだ。
そのための十字架なのだ。
人に愚かな言葉を投げつけないために、イエス様が変わって引き受けて下さるのだ。
どんな人間でも、神に愛されるべき存在であり、イエス様はそのために自らの命を犠牲にされた。
人間には、どんなに善なることを願っても、そのようなことはできない。
ただただ、イエス様のみもとにすがるだけであろう。
悪霊に取りつかれていた者がイエス様に対して不遜な言葉を投げつけているが、それで良いのだろう。
イエス様以外の人間に怒りや不満をぶつけるくらいなら、もっと素直にイエス様にぶつけたら良い。
そのうち、その怒りのためにもイエス様が十字架で死んで下さったことの意味も見えてくるだろう。
イエス様の十字架によって全ての罪を赦さ絵得れている事を覚えつつ、怒りの矛先を見誤らないように努めたいものである。