イザヤ4章2~6節、詩篇72篇1~7,18~19節、使徒1章12~17,21~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 4:2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。
4:3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。
4:4 主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。
4:5 主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。
4:6 昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。

詩篇 72:1  ソロモンの詩。 神よ、あなたによる裁きを、王に あなたによる恵みの御業を、王の子に お授けください。
72:2 王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ あなたの貧しい人々を裁きますように。
72:3 山々が民に平和をもたらし 丘が恵みをもたらしますように。
72:4 王が民を、この貧しい人々を治め 乏しい人の子らを救い 虐げる者を砕きますように。
72:5 王が太陽と共に永らえ 月のある限り、代々に永らえますように。
72:6 王が牧場に降る雨となり 地を潤す豊かな雨となりますように。
72:7 生涯、神に従う者として栄え 月の失われるときまでも 豊かな平和に恵まれますように。
72:18 主なる神をたたえよ イスラエルの神 ただひとり驚くべき御業を行う方を。
72:19 栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ 栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。

使徒 1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
1:21 -22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。


イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて殺されてから、三日目によみがえり、その復活されたお姿を弟子たちや多くの人たちに示された後、天に昇っていかれ、その後はイエス様の姿を見ることはできなくなった。
弟子たちにとってみれば、正直なところ、大きな喪失感や不安感も携えながらの新しい歩みへと進もうとしていたに違いない。
将来のことは誰にも分からないし、過去に起きた出来事を糧にしながら、人は新しい時代を生きていく。
そして、人も代わる。
新しい時代に生きる、綿らしい世代の人たちに、新しい時代が受け継がれていく。
古い世代の人が幾ら「我々はこうだったとか」「もっとこうした方が良い」などと言ったところで、新しい世代の人たちにしてみれば、ただただ窮屈なだけだし、いつか居なくなる人にアレコレ言われたところで、それはただのお節介か無責任な言動にしかならないだろう。
アドバイスを送ることは良しとしても、考え方や行動などを縛り付けるべきではないだろう。
その日、その時に生きる人たちが、与えられた所でしっかり考え、選んでいくしかない。
生きるとはそういうことである。
ユダの代わりに使徒として選ばれたマティアという人物は、その後どうなったのか、聖書にはあまり語られていない。
もしかしたら、荷が重すぎたのかもしれない。
しかし、マティアはマティアなりに、自分にできる務めを精一杯つとめていったのだろう。
後のことが詳しく語られていないという事は、彼は自分の務めを忠実に果たした、そういうことなのだろう。
忠実に歩む人というのは、いうほど目立たないし、むしろ、目立つべきはないのかもしれない。
歴史に名を残すとか、名声を上げるとか、そんなことはどうでも良いこと。
生かされた時代を、与えられた所で、忠実に生きていく。
そのために、しっかりと物事を見て、深く考えて、自分がなすべきことは何なのか、限られた時間の中で、最もふさわしい生き方を選んでいけるようにと願うものである。

1コリント7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。