エゼキエル 39:21 わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置くわたしの手を見る。
39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:23 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
39:24 わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。
39:26 彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。
39:27 わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
39:28 わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
40:1 我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。
40:2 神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。
40:3 主がわたしをそこへ連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた。
40:4 その人はわたしに向かって言った。「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい。」
詩篇 141:1 賛歌。ダビデの詩。 主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。
141:2 わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし 高く上げた手を 夕べの供え物としてお受けください。
141:3 主よ、わたしの口に見張りを置き 唇の戸を守ってください。
141:4 わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって 悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。
141:5 主に従う人がわたしを打ち 慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません 彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。
141:6 彼らの支配者がことごとく 岩の傍らに投げ落とされますように。彼らはわたしの言葉を聞いて喜んだのです。
141:7 「あたかも地を裂き、地を割ったかのように わたしたちの骨は陰府の口に散らされている。」
141:8 主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。
141:9 どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に 悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。
141:10 主に逆らう者が皆、主の網にかかり わたしは免れることができますように。
1コリント 10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
私たちがどう行動するべきか、どう生きるべきかといったことは、私たち自身に委ねられている。
しかし、全ての点において、必ずしも私たち自身の選択が正しいとは言えず、むしろ、過ちや失敗も数多く経験していく。
常に正解を選べればいいが、正解だと分かっていても、それを選べないこと、選びたい苦ない事もある。
主なる神様は、イエラエルの民を聖なる民としてお選びになったが、それは、彼らが正しいからとか、優れているからとかではなく、むしろ、裏切り、失敗し、それでも神に赦していただいた者としての見本としてお選びになっていると言えるかもしれない。
ましてや我々はどうだろうか。
何のとりえもないような愚かな罪人であり、神の御心に背くようなことばかり率先して選び、行っているようなもの。
しかし、だらかこそ、神は我々を救い、罪赦された者の見本としてこの世界に生かして下さっているのだろう。
何をやるのも私たちは自由である。
しかし、行った事について「あなたは神の御心にかなった行動を取りましたか」といった責任は問われているのだろう。
そして、その全ての責任を、神の御子イエス様ご自身が引き受けて下さった、それが十字架である。
何をやるのも自由である。
しかし、その背後に、常にイエス様の十字架の贖いの御業があり、それでも赦されているという幸いを覚え、願わくは、少しずつでもいいから、神の御心に適う生き方を選び取っていけることを願いたい。
キリスト者として、イエス様の十字架の贖いのゆえに罪赦され、愛された者としての自由を生きて生きていきたいものである。