ヨブ1章1,17~34節、詩篇123篇、2ヨハネ1章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨブ 21:1 ヨブは答えた。
21:17 神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
21:18 藁のように風に吹き散らされ もみ殻のように 突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
21:19 神は彼への罰を その子らの代にまで延ばしておかれるのか。彼自身を罰して 思い知らせてくださればよいのに。
21:20 自分の目で自分の不幸を見 全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。
21:21 人生の年月が尽きてしまえば 残された家はどうなってもよいのだから。
21:22 「人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる」と言う。
21:23 ある人は、死に至るまで不自由なく 安泰、平穏の一生を送る。
21:24 彼はまるまると太り 骨の髄まで潤っている。
21:25 また、ある人は死に至るまで悩み嘆き 幸せを味わうこともない。
21:26 だが、どちらも塵に横たわれば 等しく、蛆に覆われるではないか。
21:27 あなたたちの考えはよく分かっている。わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ。
21:28 「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕は どうなったのか」とあなたたちは問う。
21:29 通りかかる人々に尋ねなかったのか。両者の残した証しを 否定することはできないであろう。
21:30 悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに
21:31 誰が面と向かってその歩んできた道を暴き 誰がその仕業を罰するだろうか。
21:32 彼は葬式の行列によって運ばれ その墓には番人も立ち
21:33 谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。人は皆彼の後に続き 彼の前にも、人は数えきれない。
21:34 それなのに空しい言葉で どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない。

詩篇 123:1  都に上る歌。 目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よ。
123:2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。
123:3 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
123:4 平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの侮りに わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。

2ヨハネ 1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
1:2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。
1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。
1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。
1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。
1:13 あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。


聖書において重視されている言葉に、愛と義がある。
愛とは他者を憐れむ心であって、それ自体は尊いものである。
しかし、必要以上に愛しすぎてしまって、かえって相手をダメにしてしまうこともあるし、なかなか匙加減が難しい。
そして、他者を愛することは正しいことであり、義ともいえる。
しかし、義も行き過ぎてしまえば、他者を批判したりしてしまい、これもまた匙加減が難しいもの。
愛も義も、ほどほどがいいのか、それとも、イエス様のようにどちらも徹底的に押し通していければ良いのかもしれないが、イエス様の十字架を思う時、完全なる愛と義は、自らの命を犠牲にする仕方でしか完結できないものであることを思う。
所詮私たちに完全な愛とか義とは全うできないのだけれど、せめて、少しでも神の御心に適う形で、少しでも愛ある行動をし、そして、義なる行動を取って行きたいと願う。
大切な事は、いつでもイエス様の十字架に立ち帰る事であろう。
誰かを憐れもうとする心がある時には、イエス様の命がけの十字架の姿を思って、少しでもその愛にそう形で愛に近い行動をし、少しでも正しいことを行えるよう願いつつも、もし、愛のない心を示されたり、他者を批判したり、裁いたりする心が見えた時には、イエス様の十字架の贖いによって、その愚かな罪も赦されていることを思い出したい。
いつでも、どんな時でも、絶えず祈り続けるとは、そういうことであろう。
イエス様の十字架を見上げつつ、今日も歩もう。