列王下15章1~7節、詩篇61篇、マタイ10章5~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王下 15:1 イスラエルの王ヤロブアムの治世第二十七年に、ユダの王、アマツヤの子アザルヤが王となった。
15:2 彼は十六歳で王となり、五十二年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエコルヤといい、エルサレムの出身であった。
15:3 彼は、父アマツヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。
15:4 ただ聖なる高台は取り除かず、民は依然として聖なる高台でいけにえを屠り、香をたいていた。
15:5 主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。
15:6 アザルヤの他の事績、彼の行ったすべての事は、『ユダの王の歴代誌』に記されている。
15:7 アザルヤは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に先祖と共に葬られた。その子ヨタムがアザルヤに代わって王となった。

詩篇 61:1  指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。
61:2 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。
61:3 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
61:4 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。
61:6 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り 御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります。
61:7 王の日々になお日々を加え その年月を代々に永らえさせてください。
61:8 王が神の前にあってとこしえの王座につき 慈しみとまことに守られますように。
61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い 日ごとに満願の献げ物をささげます。

マタイ 10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
10:14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
10:15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」


イエス様は弟子たちを宣教に遣わす時に「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と語られている。
この言葉は、異邦人やサマリヤ人らは救われなくても良い、ということではなく、異邦人らが習慣としているような生き方や、サマリヤの人たちが拝んでいる偶像の神々を頼るような生き方をしないように、との意味であろうと思われる。
「道」や「町」と言われているのも、それらの習慣や文化などに囚われているだけに過ぎないことを示しているように思う。
まことの生ける神を知らない異邦人たちは、神を恐れる心を見失い、自分たちの思うがままに、力や富を用いて傍若無人に振舞う事が当たり前となっていたであろうし、偶像の神々を礼拝していたサマリヤ人たちは、自分たちの欲望を満たすために作り出された神々を礼拝することで、人間の欲望や、それい従って生きる生き方を正当化し、邪悪で傲慢な生き方に惹かれてしまっていたのであろう。
そのような人たちの生活環境のもとで暮らしていれば、どんなにまことの神を信じている者でも、次第に引きずり込まれてしまうし、イエス様もそのようなことにならないよう、できるだけ避けて過ごすように弟子たちに命じられたのであろう。
人は思ったよりも強くないし、信仰に燃えていた弟子たちでさえ、ちょっと油断すれば、すぐに信仰を捨て去ってしまう弱さも抱えていたことは事実であろう。
そして、それは、我々も同じである。
私たちはこの世界に生きる全ての人たちに真の神の救いを知ってもらいたいと思うし、可能な限り、宣教の働きにも携わっていきたい。
しかし、人は自分が思うほど強くはないし、むしろ、いつでも引きずり込まれて、罪の支配下に堕ち、過ちを犯してしまうかもしれないものである。
だから、異教の社会の習慣や文化を全く否定するのではなくても、多少距離をとって過ごすというのも一つの知恵であろう。
全ての人に救われて欲しいから、敵対し、争うのではなく、相手の気持ちも尊重しながらも、多少の距離を置きつつ、自分は自分の信じている神様をしっかりと心に据えて、信仰を証しすることのできるチャンスを伺っていくのも悪いことではない。
むしろ、それくらい慎重でも良い。
異教の習慣や文化に囚われている人をそこから解放するのは難しいけれども、私たち自身が偶像の虜にならないよう、自分たちの信仰をしっかりと保ちつつ、福音を伝えることのできるチャンスを伺いながら、平和のうちに歩んでいきたいものである。