箴言14章12~31節、詩篇12篇、使徒4章1~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言 14:12 人間の前途がまっすぐなようでも 果ては死への道となることがある。
14:13 笑っていても心の痛むことがあり 喜びが悲しみに終ることもある。
14:14 二心ある者は自らの道に 善人は自らの業に飽かされる。
14:15 未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。
14:16 知恵ある人は畏れによって悪を避け 愚か者は高慢で自信をもつ。
14:17 短気な者は愚かなことをする。陰謀家は憎まれる。
14:18 浅はかな者は無知を嗣業とし 熟慮ある人は知識をその冠とする。
14:19 神に逆らう者は神に従う人の門の前に 悪人は善人の前に、身を低くする。
14:20 貧乏な者は友にさえ嫌われるが 金持ちを愛する者は多い。
14:21 友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。
14:22 罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る。
14:23 どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。
14:24 知恵ある人の冠はその富。愚か者の冠はその無知。
14:25 真実の証人は魂を救い 欺きの発言をする者は裏切る。
14:26 主を畏れれば頼るべき砦を得 子らのためには避けどころを得る。
14:27 主を畏れることは命の源 死の罠を避けさせる。
14:28 国が強大であれば王は栄光を得る。民が絶えれば君主は滅びる。
14:29 忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。
14:30 穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる。
14:31 弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。

詩篇 12:1  指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。
12:2 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え 人の子らの中から 信仰のある人は消え去りました。
12:3 人は友に向かって偽りを言い 滑らかな唇、二心をもって話します。
12:4 主よ、すべて滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。
12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
12:6 主は言われます。「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
12:8 主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえに至るまで わたしたちを見守ってくださいます。
12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます 人の子らの中に 卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

使徒 4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」



初代教会の時代、使徒たちは町々を巡ってイエス様の救いについて宣べ伝えていたが、彼らの行動を快く思わない人たちがいた。
ここでは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人たちがペテロとヨハネを捕らえ、牢に入れてしまうのである。
翌日、議員、長老、律法学者らも加わり、ペテロとヨハネらを審問するのであるが、彼らの思惑は、自分たちの地位や権限などを保持することにあり、それを阻害する恐れのある民衆のキリスト信仰と、それを誘導している使徒たちの存在は、邪魔なものであったのだろう。
しかし、神の御心と、それに従って行動していた使徒たちの思いは、人々の救いのためであり、全く異なる方向に思いが向いていたために、いくら言葉を尽くして説明しても、使徒たちを迫害する者たちに理解されることはなかったし、受け入れられることもなかった。
そもそも、思う所、求めている事柄が全く違うのである。
自分のこと、自分にとって益となることだけを求めていれば、自ずと、周囲の人に対してぞんざいに振舞ってしまいがちになるし、逆に、人々の祝福を願い、救われることを望んでいる人は、自ずとその言動は好ましいものとなるだろう。

人の思いは行動に現れてくる。
しかし、なかなか自分の言動というものは、客観的に見ることが難しく、時々己の言動を振り返り、顧みてみることが大切であろう。
私は職業柄、自分が話をしている姿を見たり、声を聞いたりすることがあるので、だいぶ慣れてきているが、写真や動画などをみて、自分の姿や声に驚きや気恥ずかしさを覚える人も多いのではないだろうか。
自分で自分の姿をみて、恥ずかしいと思うかもしれないが、その姿を周りの人たちはいつも見ているのだから、なおさら恥ずかしい気持ちになるかもしれない。
しかし、主なる神様は、表に現れてくるものだけではなく、内面の全てもご覧になっている。
そして、そんな私をイエス様は命がけで愛して下さった。
恥ずかしいなどといった状態を通り越して、もはや、恐れと感謝しかない。
神の御前に、真実な姿をさらけ出し、それでも「私はあなたを愛している。あなたの罪は全て赦された」と言って下さる主の御前に、ただただ畏れつつも、平安のうちに立たせていただき、神の豊かな憐れみによって赦された者として、周囲の方々にもこの喜びを知って頂けるように生きて行きたいものである。