出エジプト 23:1 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
23:2 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。
23:3 また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
23:4 あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
23:5 もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
23:6 あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。
23:7 偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。
23:8 あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
23:9 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。
詩篇 113:1 ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ 主の御名を賛美せよ。
113:2 今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。
113:3 日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。
113:4 主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。
113:5 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き
113:6 なお、低く下って天と地を御覧になる。
113:7 弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ
113:8 自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。
113:9 子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。
ローマ 3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
聖書に記されている戒めの中に「あなたは偽証してはならない」というものがある。
偽証とは、文字通り、偽りの証言をしてはならない、という意味であり、単に、嘘をついてはならない、ということではない。
偽りの証言をする、ということは、そこに誰かを陥れようとする思惑が働いていて、その人の評判を落とし、損害を与え、もっと言えば、命を奪おうとする力が働いていると言えるからである。
嘘をつくことも好ましいことではないが、人を守るためとか、気分を害さないために真実を言わないこともあるだろう。
もちろん、自分の利益を守るために、他者に損害を与えるような嘘をつくことは避けるべきであろう。
いずれにしても、他者の幸福を願い、助けとなるような行為に反することは慎むべき、というのが聖書の戒めにおける中心的な要素であろう。
偽りを語ることで人を陥れることは避けるべきことであるが、真実を語る時にも、そこに相手に対する配慮や尊敬の心があるだろうか。
本当は、そういったことが問われているのであろう。
人とかかわっていく時、共に生きて行こうとする時、時には厳しいことを言わなければならない機会もあるだろう。
でも、そのような時にも、相手に対する尊厳と配慮の気持ちがあれば、語る言葉や態度も全然違ってくるだろうし、愛の心を持って人と接していくならば、きっとその想いも通じるだろう。
仮に通じなくても、愛を持って接していたのなら、何も恥じることはないし、主なる神様の御前に恥ずべきことがなければ、それで良いだろう。
仮に私のうちに愛の心がなかったとしても、少なくとも、神の言葉を伝えて行くならば、そこには必ず愛の神ご自身が働いて下さる。
イエス様は、人を生かすために御自分の命をも捧げられたお方なのだから、きっと私を生かし、用い、関わる人たちをも生かして下さると信じて、神が遣わされるところで、御言葉を携えながら、友のために何ができるかと思いをはせ、イエス様と共に歩んで行きたい。