エゼキエル 20:33 わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは必ず、強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、お前たちを治める。
20:34 強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める。
20:35 わたしはお前たちを、諸国の民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。
20:36 お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く、と主なる神は言われる。
20:37 わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。
20:38 わたしはお前たちの中から、わたしに逆らい、背く者を分離する。わたしは、彼らを寄留の地から連れ出すが、彼らはイスラエルの土地に入ることはできない。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
20:39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。
20:40 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。
20:41 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。
20:42 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
20:43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
20:44 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。
詩篇 109:21 主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください。
109:22 わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。
109:23 移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます。
109:24 断食して膝は弱くなり からだは脂肪を失い、衰えて行きます。
109:25 わたしは人間の恥。彼らはわたしを見て頭を振ります。
109:26 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください。
109:27 それが御手によることを、御計らいであることを 主よ、人々は知るでしょう。
109:28 彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが あなたの僕は喜び祝います。
109:29 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし 恥を上着としてまとうでしょう。
109:30 わたしはこの口をもって 主に尽きぬ感謝をささげ 多くの人の中で主を賛美します。
109:31 主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます。
ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
律法学者やファリサイ派の人たちは、イエス様が安息日に癒しの業を行った事を問題視していたが、それは、彼らが人間の業によって救いを実現することができると考えていることに通じるものであろう。
安息日に労働してはならないということは、裏を返せば、安息日以外にはしっかりと働き、神の御前に功績を積んでいくべき、そんな風に考えていたのであろう。
しかし、手が動かない人や、体が不自由な人などは、労働することは簡単なことではない。
全てが健常者を基準に物事を考えていくと、そこには必ず必ず「救われない人」ができてしまうのだ。
もちろん「救われない」のではなく、人間の業に救いの基準を置くから、救われない人であるかのように思ってしまうのであり、本当は救われない人などいないのである。
なぜなら、救いの根拠は、我々人間の業によるのではなく、ただただ神の恵みにより、御子イエス様の尊い贖いの十字架の御業によるからである。
私たちにできる事は、ただ、そのことを知ることのみ。
エゼキエル書の後半部分の記述を見ると、人間は、ただ悪を行っているだけで、気が付いた時には、もう既に手遅れのような状態で、ただ自らを省みることしかできないのだ。
しかし、それで良い。
神の憐れみによって救っていただいて初めて自らの罪深さを思い知らされ、そして、神の大いなる恵みと憐れみを思い知らされる。
私たちの犯してきた愚かな過ちが取り返しがつかないように、キリストの贖いによる救いの約束も、もはや永遠に誰にも覆すことはできないのだから。
エゼキエル 20:41 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。
20:42 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
20:43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
20:44 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。