コヘレト2章1~17節、詩篇127篇、コロサイ3章18節~4章1節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

コヘレト 2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い 快楽に対しては、何になろうと言った。
2:3 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
2:4 大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
2:5 庭園や果樹園を数々造らせ さまざまの果樹を植えさせた。
2:6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
2:7 買い入れた男女の奴隷に加えて わたしの家で生まれる奴隷もあり かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く 牛や羊と共に財産として所有した。
2:8 金銀を蓄え 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ 人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
2:9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって わたしは大いなるものとなり、栄えたが なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
2:10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。
2:11 しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。
2:12 また、わたしは顧みて 知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が 既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。
2:13 わたしの見たところでは 光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
2:14 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている 両者に同じことが起こるのだということを。
2:15 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。
2:16 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
2:17 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。

詩篇 127:1  都に上る歌。ソロモンの詩。 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。
127:2 朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
127:3 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。
127:4 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
127:5 いかに幸いなことか 矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも 恥をこうむることはない。

コロサイ 3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
3:22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
3:24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
3:25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。


私には家族がいる。
話しをよく聞いてくれて、すべて理解してくれ、いつでも応援してくれる賢い妻がいる。
子ども達は、それぞれに思う事もあるのだろうけれど、私の話しにもきちんと耳を傾けて、妻と同じように理解してくれる。
ありがたいことであるが、こんな素晴らしい家族を与えて下さった主に感謝するほかない。
自分の家族をみて、家族とは本当に幸いな存在だと思えることは、幸いなことなのだろう。
けれど、そんな風に思える人がどれくらいいるのだろうか。
お金があっても家族がバラバラな家庭もあれば、互いにギスギスして本音の部分では憎しみ合っているような仮面家族もいるだろう。
家族と言えど、相手は同じ一人の人間であり、本質的には他人と変わりはない。
だから、自分の家族を愛することは、隣人を愛することであり、神を愛することにつながっていると言えよう。
他人のことをとやかく言う前に、まずは自分の家族の状態を振り返ってみたい。
そして、自分と家族の状態を顧みて、そこに、揺るぎない信頼や平安、そして愛があふれているかどうか。
それら一つでも損なわれているのなら、自分のうちに悔い改める部分がないかどうか、静かに自分自身を振り返ってみたい。
そして、一つでも示される罪が見つかったなら、イエス様の十字架のもとに帰りたい。
すべてはそこから始まる。