エゼキエル11章14~25節、詩篇48篇、1コリント2章12~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 11:14 主の言葉がわたしに臨んだ。
11:15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』
11:16 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』
11:17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。
11:18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。
11:19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
11:20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
11:21 しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。
11:22 そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。
11:23 主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。
11:24 霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。
11:25 わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた。

詩篇 48:1  歌。賛歌。コラの子の詩。
48:2 大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は
48:3 高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。
48:4 その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。
48:5 見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。
48:6 彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。
48:7 そのとき彼らを捕えたおののきは 産みの苦しみをする女のもだえ
48:8 東風に砕かれるタルシシュの船。
48:9 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。
48:10 神よ、神殿にあってわたしたちは あなたの慈しみを思い描く。
48:11 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。
48:12 あなたの裁きのゆえに シオンの山は喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る。
48:13 シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ
48:14 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ
48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

1コリント 2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
2:16 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。


聖書に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との戒めがあり、それゆえ、神を信じる人たちは、毎週聖日には教会に集い、礼拝にあずかる。
信徒ではない方々にしてみれば、いったいなぜ、何のために集っているのか理解できないかもしれない。
あるいは、単に寂しいから寄りあい、慰めあっているだけと考える人もいるかもしれない。
もちろん、神からの慰めを受けるという点では、あながち間違いでもないかもしれないが、地上の教会における礼拝は、目には見えなくても、そこに神の国が到来しているからこそ、そこに集う意味があるのである。
全能の主なる神様がモーセに現れた時も、モーセは神のお姿を目にすることはできなかったが、神はモーセに対し「わたし『わたしはある』というものである」と告げられ、実際に存在し、全ての命あるものの源として、まことの命を与えるお方であることを宣言しておられるのである。
つまり、神は言葉だけであったとしても、そこに真実があり、存在があり、命があるのである。
日曜に教会に集まって、お話しを聞いて何が面白いのか、と思われる方もおられるかもしれない。
しかし、神の言葉には真実があるし、命がある。
神の御子イエス・イリストの命がけの愛による救いの約束がある。
だから、そこに慰めや希望がある。
むしろ、それなしに、人はどうやって生きていけるのか、そちらの方が不思議である。
モノがあり、お金があったところで、人はそれだけで生きていくものでもない。
むしろ、物欲に支配された者は、滅びの道を進んでいくだけであろう。
真の命に生きるために、日曜日には教会へ行き、そこで語られる命の言葉を聞き、慰めと励ましを頂きたい。
それが本来あるべき命ある人の生き方なのだと思う。